【正文】 。だが、手を出そうとする者はいない。うちの黒騾馬だ、羅漢大爺はその聲を聞きわけた。あたり一面に、高粱の屌が橫たわっている。 午後、二十歳すぎの若者が、監(jiān)督の隙をみて飛ぶように高粱畑へ逃げこみ、一発の銃弾がかれをとらえた。 夕日が沈むころ、あのカーキー色のトラックがまたやってきた。高粱飯に慣れきっている胃袋は、そのかびくさい白米飯をまるで受けつけなかった。逃げようという気持ちはますますはげしくなった。それは、かれのものだ。熱い湯気をたてていた大鍋は冷えてしまっている。山積みされた高粱の葉の上で祖母が與えてくれた?jī)?yōu)しさを、かれは死ぬまで忘れなかった。柵の上には幾枚かの帆布がかぶせ てあった。ゲートはこぶしの半分ほどの太さの鉄の棒を熔接してつくられていた。あの犬は、鬼子のテントの入り口につながれていた。鬼子と傀儡兵が、かわるがわる勤哨に立っていた。繋留用の杭が、數(shù)十末も立っている。いびきをかいている者、柵のすみのバケツに放尿 18 する者。カンテラの光が、うっすらと柵の內(nèi)側(cè)へさしこんでくる。 夜がふけると、冷気が襲ってきた。かれは、まだ逃げることを考えていた。大爺はじっと橫たわったまま、うとうとと眠りこんだが、夢(mèng)のなかで頭を鋭い刃物で刺され、手に焼きごてを握らされたような気がした。遠(yuǎn)くの村落から、かぼそい鶏鳴が聞こえてきた。帆布の破れから、幾つかの星がおずおずと姿を見(jiàn)せていた。暗がりなのに、火の玉のような両眼が見(jiàn)える。 中年の男は柵の出入り口に跪いて、両腕をあげた。大爺は男の背と謎めいた色彩をおびた頭を見(jiàn)つめた。男の目が暗緑色の光を放ち、その光が物體にぶつかってジージーと音をたてたような気がした。柵の出入り口からさしこむカンテラの光と星明りが増して、誰(shuí)のものとも知れぬ口の開(kāi)いたぼろ靴を照らす。黒い影が一つ柵をおどり出た。鬼子の銃をとりあげて、男はそっと消えさった。中年の男は、武術(shù)にすぐれた英雄だったのだ。死んだ鬼子は仰向けに橫たわっている。 高粱畑に這いこんだ大爺は立ちあがって、音をたてまいと懸命に高粱をよけながら、畑の畝間をとおって墨水河の土手にのぼった。墨水河に、星がきらめいていた。下顎の痛みが頬から耳へと広がり、ずきずきと化膿するような頭の痛みと一つになった。鬼火のようなカンテラは霧のなかで光つづけていた。こんなにやすやすと逃げ出せるとは、羅漢大爺はとても信じられなかった。河で魚がはね、せせらぎの音が響く。なにも起こらなかったみたいだ、ほんとうに。だが、橋を渡りかけたとき、かれは河の單岸で騾馬が一聲、落ち著き なくいななくのを聞いた。それが、壯烈な悲劇を生むことになったのだった。騾馬たちの體の下には糞尿の悪臭があふれ、馬は鼻をならし、騾馬は杭をかじっている。羅漢大爺はのめるように騾馬の群れにわけ入った。かれは駈けよった。だが、騾馬―こ の理屈をわきまえぬ畜生はすばやく大爺の方へ尻を向け、二つの蹄で蹴あげたのだった。 「さあ、黒よ、一緒に逃げよう！」 騾馬は右へ左へと亂暴に身をかわして、その領(lǐng)分を守りつづけた。羅漢大爺がやきもきして一歩近づくと、騾馬はさっと蹄でかれの股ぐらを蹴った。身體が半分しびれた。蹄鉄が殘?jiān)陇韦瑜Δ摔椁幛?。かれは幾度も起きようとしては倒れた。闇はしだいに消え、オリオン三星がまばゆく輝き、きらきらと光る騾馬の尻と眼球に輝きをそえた。誘水路の掘削現(xiàn)場(chǎng)で、刃先のするどいシャベルが見(jiàn)つかった。もう怖くは ない。東の空がゆっくりと赤らみ、赤いかたまりが、昇るにつれて四方へ散っていく。朝焼けをあびて、羅漢大爺は三頭 20 の騾馬の方へと近づいていった。騾馬はじっと立っている。ほそく、冷たい影が騾馬の後腳に落ちた。騾馬の頭のあたりから、驚きと怒りをこめた荒々し いいななきが起こる。大爺の顔は、ずぶ濡れになった。騾馬は一聲ため息をついて、ゆっくりと尻を落とし、どっと地べたにすわりこんだ。シャベルは騾馬の重い尻の下敶きになり、大爺もしゃがみこんだ。シャベルの刃は、騾馬の腳の骨までがっしりとくいこんでいたようだ。 大爺がシャベルをかまえて迫ると、騾馬は懸命に後ずさった。こぶしほどもある騾馬の目には、濃い紺色の光が流れていた。畜生！さっきの元?dú)荬悉嗓Δ筏?。シャベルは木の杭にささった。騾馬はもがきながら、後腳を弓なりに曲げる。大爺は騾馬の顔に狙いをさだめた。固い頭骨とシャベルの刃がぶつかる。騾馬は黙って、めちゃめちゃに腳をばたつかせていたが、やはり耐えられなくなって、分厚い壁が倒れるようにドッと音をたてて倒れた。大爺は黙然と立ちつくした。むこうで犬と人が騒いでいる。東の高粱畑に血のように赤黒い朝日が現(xiàn)れた。 四 21 河の土手にあがると、隊(duì)伍は一の字に並んだ。父は、みんなと同じに顔を赤と緑の半々に分け、かれらと一緒に墨水河の河面に消え殘る霧のかたまりを眺めた。もとの小さな木の橋は石橋の西側(cè)にあり、橋面はもう幾つかに絶たれていた。消え殘った霧のなかの河面は、ぞっとするほど赤と緑に染まっている。高粱たちはじっとしている。ありったけの高粱が集まって壯大な集団となり、大度の思想を形成する― そのとき父はまだ子供だったから、こんな灑落た言いまわしは思いつかなった。 高粱も人も、時(shí)という花が実を結(jié)ぶのを待った。はるか彼方の、青黒い大空のへりと連なる高粱の上にも、悲しいほど胸をうつ日の出の情景が現(xiàn)れていた。かれらはどこからきたのか？どこへ行くのか？なんのために待ち伏せ攻撃をかけるのか？待ち伏せ攻撃のあとはなにと戦うのか？ 靜けさのなかで、壊れた橋のあげるリズミカルな水音がいっそうはっきりと聞こえてきた。墨水河は暗い赤からおもむろに黃色がかった赤へと燃えあがった。水際で花？菜（じゅんさい）が一株、黃色い葉を垂れ、美しさを誇っていた蠶狀の花序も、いまは青白くしなびて葉柄の間にたれ下がっている。父は、河から蟹だけにしかないあの淡いなまぐささを嗅ぎつけた。 余司令が言った。啞巴、まぐわをしかけてくれ」 啞巴は幾巻きかの針金を肩からおろし、四つのまぐわを一つに結(jié)わえた。 22 余司令が言った。鬼子の自動(dòng)車が橋を渡りはじめて、冷（ルン）支隊(duì)のやつらが退路をふさいだら、おれの合図で一斉射撃だ。啞巴はうなずき、隊(duì)員の半分を率いて、公路の西側(cè)の高粱畑に身をひそめた。 「おまえはこっち、俺と一緒だ。 王文義はしきりにうなずいた。 「老 劉（ラオリウ）、おっぱじまったら、他のことはうっちゃって、思いきりラッパを吹いてくれ。いいな」 劉吹手は余司令の古くからの仲間だ。かれは両手で銃を握るように、ラッパの筒をつかんでいる。 「ことわっておくが、いざという時(shí)に怖じ気づくやつは、俺が撃ち殺す。あん畜生ども、旗じるしをかさにきやがって。手下になれだと？そいつは、こっちのせりふよ！」 みんなは高粱畑 のなかにすわっている?；鸫颏两黏宵\、石は赤、よく煮えた鶏の肝のようだ?；鸹à悉嗓欷獯螭ぁ７搅冥颏膜埭幛拼丹?、火縄は白い煙をあげて、赤くなった。余司令が吐息をついて、鼻をすすりあげた。余司令が言った。鬼子がいつきてもいいようにな」 みんなは大敵を迎え撃つかのように、銃を抱いて土手に伏せた。余司令が言った。 「平気だ！」 余司令が言った。はじまったら俺のそばを離れるな。大きいのと、小さいの。それぞれいわくつきものだ。 「ピストル！」 余司令が言った。 「うん」 余司令がたずねた。拳銃は年老いて、錆どめの塗裝はすっかりはげ落ちている。かれはその弾をほうりあげ、受けとめてから裝填しなおした。 「おれのようにうまくなれよ」 父は銃をつかみとった。 昇ったばかりの新月が、枯れ木の枝を低くおさえつけていた。父は庭の開(kāi)き戸をあけた。酒造小屋に腐った酒かすの悪臭が広がる。短い眉、薄っぺらな口。かれは酒壺を甕のなかにおしつけた。壺をとり出すと、壺についた酒がぽたぽたと甕にしたたり落ちた。祖母が血まみれの顔を洗った酒のことを思い出したのだ。祖母と余司令はいくら飲んでも平気なのに、冷支隊(duì)長(zhǎng)はすこし酔っていた。父は酒壺を置き、ありったけの力で石臼をどけた。甕の腹に大きな穴があき、高粱酒がどぼどぼと噴き出たが、父はそれを無(wú)視した。血にまみれた羅漢大爺の頭と祖母の顔が浮かんでくる。父は酒壺を甕のなかにおしつけて、血のまじった酒を満たし、両手でささげもって家にもどった。祖母は二人の間に立ち、左手で冷支隊(duì)長(zhǎng)のレボルバー、右手で余 司令のブローニング拳銃を押さえている。 「話がまとまらなくても仁義は仁義。 「やい、王（ワン）旅団長(zhǎng)の旗じるしをふりかざしても無(wú)駄だぞ。盜賊稼業(yè)も十年、王大瓜子（ワンダ―くアツ）の畜生なんぞ屁でもねえ！」 冷支隊(duì)長(zhǎng)はせせら笑った。武器をもってきてくれりゃ、あんたには大隊(duì)長(zhǎng)になってもらう。おれは去年日末の歩哨 25 を三人片づけて、三八歩兵銃を三丁も分捕った。 それを機(jī)に、父は酒壺をかかえていった。祖母は三つの碗にそれぞれ、あふれるほど酒をついだ。男なら飲んどくれ。お互い好きにやればいい」 そう言って、祖母はごくごくと酒を飲みほした。 冷支隊(duì)長(zhǎng)は半分ほど飲んで、碗を下に置いた。失禮する！」 祖母がレボルバー拳銃を押さえて、たずねた。 「もう頼むな。 「わかった」 祖母が手をゆるめると、冷支隊(duì)長(zhǎng)は拳銃をつかんで腰のベルトに掛けた。腰のベルトには弾がどっさりはさんであり、拳銃をかけるとベルトは三日月のように垂れさがった。 「占 鰲 、豆官はあんたにあずける。 「おまえ、大丈夫か？」 父はさげすむように余司令の唇からのぞいている黃色く、硬い歯を見(jiàn)ながら、黙っていた。 余司令はゆっくりと大きく三歩、壁際へ近づいた。冷支隊(duì)長(zhǎng)の口もとにあざ笑うよう なしわが浮かぶ。腕が水平にあがり、黒い 26 目が燃えるように輝いている。父の頭で轟音が響き、盃が砕け散った。父は黙っていた。冷支隊(duì)長(zhǎng)は腰掛けにへたりこみ、しばらくしてやっと口をきいた。 「いいぞ、坊主！」 ブローニング拳銃が、ばかに重く感じられる。 「おまえ、教えなくても撃てるな。啞巴はあぐらをかき、緑の石で長(zhǎng)い刀を研いでいた。 父が啞巴に言った。やがて、かれは高粱の葉を何枚かむしって刀について研ぎかすを拭きとり、雑草を抜いて切れ味を試した。 父はくりかえした。その顔にたけだけしい笑みが浮かぶ。 「ウー！ウ―！」 啞巴がうめいた。父は啞巴の胸につっ伏した。ブローニング拳銃で啞巴の背骨をつつくと、今度は鼻を力まかせにひねりあげられた。啞巴はけたけたと笑いだした。 「余司令に似ているか？」 「余司令の隠し子よ」 「豆官、かあちゃんが戀しいだろう」 「豆官、おまえのかあちゃんの棗（なつめ）が二つくっついてるマントウを食いてえよ」 恥ずかしさが怒りとなり、父は棗のついたマントウを食いたいとほざいた男めがけて、拳銃をぷっぱなした。 男は顔色を変え、すばやくとび起きて父の拳銃を奪った。 啞巴が立ちあがり、父の首ったまをつかんで思いきり投げとばした。地べたで一つ転がってから起きあがった父は、わめきながら啞巴にかかっていった。その怒りに青ざめた顔を見(jiàn)て、父はその場(chǎng)に立ちすくんだ。かれは弾をつかみ、撃鉄の衝撃でできた底部の小さな孔を見(jiàn)ながら、父に手まねをくりかえした。 「なにを騒いでいた？」 余司令にたずねられて、父はくやしげに答えた。 「それでどうした？」 父は腕で目をこすった。 余司令は受けとった弾をちらと見(jiàn)て、そっとほうった。 余司令が言った。戦がすんで、まだお前のお袋と寢ようなど 28 と言うやつがいたら、そいつの下っ腹に撃ちこんでやるがいい。いいな、下っ腹 だぞ」 父は余司令の脇に伏せていた。土手に備えつけられた舊式砲は、石の橋を狙っている。方七（フアンチー）のそばには高粱の莖の芯でつくった火縄が一束置いてある。方六（フアンリウ）のそばには火薬入れの瓢簞と散弾の入った鉄の箱が置いてあった。両手で猟銃をにぎり、震えあがっている。 太陽(yáng)は竿ひとつの高さまで昇り、まっ白な核を淡い赤が ふちどっていた。野鴨の群れが高粱の上空から飛んできた。殘りは河のなかへおりたって、流れに身をませている。身體はほかほかと暖かい。またしばらく伏せているうちに、小さな石の角が當(dāng)たって胸が痛くなった。 「伏せろ」 余司令に言われて、父はまたしぶしぶ腹ばいになった。余司令が土くれをほじりとって、方六の顔に投げつけた。目に小さな涙の玉がにじんだ。 「馬鹿！」 余司令が言った。河にかかる大きな石橋は、いかにも美しい。淺瀬にいる野鴨が平たい嘴でなにかをさがしながら、やかましく鳴きたて た。かれは重いブローニング拳銃をかまえて、平たい野鴨の背をねらう。 29 「このガキ、どういうつもりだ？」 気分がいらだってくる。高粱の赤が増した。河の單はひっそりとして、冷支隊(duì)長(zhǎng)は影もかたちも見(jiàn)えない。自分たちだけでは無(wú)理ではないかというわけで、余司令の隊(duì)に協(xié)力をもとめてきたのだ。父の視線は、またくりかえし野鴨の方へ向いた。羅漢大爺は猟銃を持っていた。その猟銃は、いま王文義の手に握られている。去年のあの日と同じ。 羅漢大爺 と二頭の騾馬が鬼子と傀儡兵に連れていかれると、祖母は酒甕のなかで血まみれの顔を洗った