【正文】 爺の死體を思い出すと、背筋が冷たくなった。うちの酒造小屋の庭に、高粱の葉が山積みされていた。 「あんた．．．．．．行かないで、かんじんなのは坊さまより仏さま、魚より水、あたしじゃなく豆官のために、殘っとくれ、なんでも．．．．．．言うことはきく．．．．．．自分の父さんだと思って．．．．．．」 羅漢大爺は祖母 をおしのけて、ふらふらと馬小屋へ騾馬に飼い葉をやりに入っていった。うちの家業(yè)は焼酎造り、村では一番のお金持ちだった。それは、うちの二頭の黒騾馬が日末人に徴発されて、膠平公路の工事現(xiàn)場へつれていかれるまでつづいた。元気をだして目を見ひらいたが、見えるのはやはりよどみがちな半透明の霧ばかりだ。高粱畑に入ってから長い時が過ぎたことも、父は忘れていた。なぜ自分が夢のように広々とした高粱畑で、こんなにあたふたと窮屈な思いをしながら進(jìn)んでいるのか、それさえわからない。前の年にも父は高粱畑で迷ったことがあったが、最後には外へ出ることができた。いま、父はまた河の啓示に耳をすませて、すぐにさとった。行く先がわかれば、目的もわかる。このまま東單の方角へ進(jìn)めば、やがて單北へ貫通して広大な平原を二分し、膠県と平度県の両県城を一つにつなぐ膠平公路にたどりつくはずだ。 高粱のざわめきは、それをぬうって行く人々が疲れ果てるにつれてますますはげしくなり、たまっている露がつぎつぎに落ちて、みんなの頭皮と頸を濡らした。もうすぐ公路だ。いつのまにか、一つに連なっていた霧の海に幾つかの空洞が現(xiàn)れた。その高粱たちを敬虔に見つめかえしながら、父はふとあることに気づいた。かれらは黒土に根をはり、日月の精をうけ、雤露にはぐくまれ、天空のしくみと地上の ことわり、 、 、 、を知っている。父は、そう推測した。まず裂くように鋭いうなりが耳もとを過ぎ、つづいて前方でなにかがはじけるような音がした。 弾丸が濃い霧をつき破り、高粱の葉と莖をつらぬいて、高粱の頭がひとつ地面に落ちる音が聞こえた。弾丸はするどく叫びながら、どこかへ飛びさった。王文義が悲鳴をあげた。 「糞ったれ！首がなくて口がきけるか！」 8 余司令は父を置いて、隊伍の先頭へ行ってしまった。近づくと、王文義の怪物めいた顔が見えた。手で觸ってみると、ねっとりした熱い液體がついた。そのにおいは薄荷のかすかな香り、高粱のほろ苦い香りを圧倒した。萬物はすべて、人の血のにおいを吐くことがあるのだ。 「おじさん、けがしてるよ」 「豆官、おまえ豆官だな、おじちゃんの頭はまだ頸の上についてるか」 「ああ、おじさん、ちゃんとついてるよ。 「司令、やられた！俺、やられちまったよ！」 余司令が前方からもどってきて、かがみこみ、王文義の頸をつかんで聲をころした。 「傷はどこだ」 余司令がたずねた。 余司令は腰から風(fēng)呂敶のような白い布を引き出し、さっと二つに引き裂いて、王文義に手渡した。道へ出たら手當(dāng)てをしてやるから」 「豆官！」 余司令がまた叫んだ。王文義が小聲でうめきながら後ろにつづく。啞巴は余司令のむかし馴染み、高粱畑のなかでともに「 拤 9 餅（チャピン）」を食べた経歴をもつ〔 拤 餅は、小麥粉を薄く焼いたパンに蔥などをはさんだ食べ物。かれは、まだ母親の腹のなかにいたとき片方の足をいためてびっこをひいていたが、歩くのはとても速かった。 余司令の隊伍が膠平公路に足を踏みいれたとき、夜明け前からつづいていた濃霧はついに逃げ散っていった。たぶ ん地勢が低く、土壌が濕気をおびているからだろう。父は余司令の服をつかんでいた手を放した。余司令が不器用な手つきで耳の手當(dāng)てにかかり、顔半分まで包帯でくるんでしまった。 「運のいい奴だ！」 余司令が言った。もう歩けねえ！」 と王文義。 「ばか、蚊に食われたくらいで三人の息子のことを忘れたのか！」 王 文義はうなだれて、つぶやいた。銃床は血のように赤黒い。 殘った霧は、すべて高粱畑のなかへ退いていった。道の両側(cè)におい茂る高粱にくらべると、公路は荒涼として、けじめがなく、不吉な感じがした。だが村にいる間、この男たちはまるで村じゅう が兵隊だらけになったような、ばか騒ぎをしでかしたのだった。火器はまるで不揃い、手製の砲や鳥撃ち銃、漢陽兵器廠製の舊式銃、方六（ファンリウ）、方七（ファンチ―）兄弟は分銅型の小砲丸を発射できる舊式砲を一門擔(dān)いでいる。待ち伏せ攻撃ははじめてのことだったし、待 10 ち伏せ攻撃になぜまぐわが必要なのか、父はむろん知 らなかった。調(diào)査の重點は、父も參加した戦い、墨水河畔で鬼子（クイツ）〔鬼子は、もともと洋鬼子（ヤンクイツ）＝外國からの侵略者に対する憎悪をこめた蔑稱。九十二歳になる、村のある老婆はこう語ってくれた。先鋒に陣どるは、余占 鰲 司令、撃ての合図に大砲のつるべ撃ち 。女方の首領(lǐng)は、才色兼?zhèn)浃未鼬P蓮（タイフォンリエン）、鉄のまぐわをうち並べ、鬼どもの行く手をはばむ ．．．．．．」 老婆の頭は陶製の甕（かめ）のようにつるつるに禿げ、顔はしなびて、ひからびた手にはへちまの繊維のような筋がなん末も浮き出ていた。足にできものができて動けなかった彼女は、夫の手で窮屈な瓜のむろにかくまわれて、幸いにも生き延びることができたのだった。わたしは、すっかり興奮してしまった。祖母も抗日の前衛(wèi)、民族の英雄であったにちがいない。祖母の纏足（てんそく）は村で一番小さかったとか、うちの焼酎はあとの酔いが強烈だったとか、彼女の話は風(fēng)に吹き散らされる木の葉の群れのように、まるでまとまりがなかった。 「道の工事がこの辺まで きたころにゃ．．．．．．高粱はまだ腰の高さしかなかった．．．．．．鬼どもは働ける者を根こそぎ駆りたてていった．．．．．．外國人にこき使われるじゃ、誰もまともに働きゃしない．．．．．．あんたの家のあの二頭の大きな黒騾馬も持ってかれた．．．．．．鬼どもは墨水河に石の橋をかけたのよ．．．．．．羅漢、あんたんとこの年とった作男さね．．．．．．あの男とあんたのばあちゃんは怪しかったよ、みんながそう言ってたもの．．．．．．いやその、あんたのばあちゃんは若いころいろいろあったからね．．．．．．あんたの父さん 11 はたいしたもん だった。父なし子だったんだもの、善人じゃとてもつとまらなかったろうよ．．．．．．羅漢は騾馬の足にシャベルをぶちかました．．．．．．捕まって寸刻みにされちまったよ．．．．．．鬼どもは鍋のなかに糞をたれるは、たらいに小便をするは、そりゃひどいもんだった。大きな弁髪を結(jié)ってたっけ．．．．．．」 羅漢大爺は、わが一族の歴史上重要な人物である。だ が、正直いって、わたしはその事実を認(rèn)めたくなかった。そう、羅漢大爺はわたしの父を?qū)gの孫同様にしていたのだから、かれはわたしの曽祖父も同じだ。だが、そうな考えは馬鹿げている。雇い主だったのだ。かれは忠実な老家扶のようにわが一族の歴史を飾り、しかも 間違いなくわが一族の歴史に輝かしい彩り（いろど）をそえたのだ。愛があったとしても、かまわないではないか。あの人は抗日の英雄だっただけではない。 わたしは膠県の県志を調(diào)べた。 民國二十七年、日末軍高密、平度、膠県ノ民 伕延べ四〇萬人ヲ捕ラエ、 膠平公路ヲ修築ス。公路沿イノ村落ノ騾馬殘ラズ略奪サル。翌日、日末軍ハ繋馬杭上ニテ劉羅漢ノ皮ヲハギ、切り刻ンデ衆(zhòng)ノ見セシメトス。 三 確かに、 膠平公路の工事がわたしたちのところへきたとき、あたり一面の高粱の丈（たけ）はまだ腰の高さまでしかなかった。平原北端の白馬山の、あの馬の形をした白い巨巖は、わたしたちの村からもはっきりと見える。日末人が平原に道をつくるという噂が流れていたのだ。 その言葉どおり、日末人はやってきた。父は、酒造小屋の方ではげしく言い爭う聲に目を覚ました。當(dāng)時、うちの酒造小屋の庭には上等な白酒の入った大甕が十?dāng)?shù)も並び、村じゅうに酒の香りをただよわせていた。銃を大仰に背負(fù)った黒服の中國人が二人、 木豇豆（きささげ）の木につながれた二頭の大きな黒騾馬の手綱を解こうとしていた。初夏だったので、羅漢大爺の著衣はひとえの上著一枚だけ、はだけた胸は銃口に小突かれてできた紫のまるいあざだらけだった。 「糞じじい、あっちへ行ってろ」 大柄な傀儡兵が答えた。困るよ。 中庭へ現(xiàn)れた祖母と父に、羅漢大爺が訴え た。 日末兵は、目を細(xì)めて祖母に笑いかけた。大柄な傀儡兵が銃で騾馬の尻を小突くと、騾馬は怒って蹄あげた。 大柄な傀儡兵が撃鉄をひいて羅漢大爺に銃を向け、大聲で叫んだ。 日 末兵の一人がかまえた銃を羅漢大爺の前でゆらせながら、「ウリワラヤラリウ！」とわけのわからぬ言葉で言った。鬼子が銃をさっと突き出すと、鋭い銃剣の下刃が羅漢大爺の坊主頭に傷口をあけた。 「羅漢、あんた、手伝っておやりよ」 一人の鬼子がゆっくりと祖母の方へ近づいた。祖母は、よろよろと羅漢大爺の背後に退いた。二人の日末兵は笑いながら近づいてきた。そして、いきなりその手で自分の顔をなで、髪をかきむしり、口を大きく開いて、狂ったように踴りだした。日末兵は驚いて立ちどまった。 「太君（タイチュン）、 這 個女人（チヨコニュレン）、 大大的 瘋 了的有（ダーダデフオンラデユウ）〔上官ドノ、コノ女、オオイニクルッテイルノアリマス。祖母は地べたにすわりこんで、おいおいと泣きだした。羅漢大爺は小柄な傀儡兵の手から手綱を受けとった。表通りには騾馬や馬、牛、羊がごたごたと駆けていた。鬼子が引きあげると、祖母は一つの甕の木蓋を取った。その頬をつたう涙が、赤く染まった。 騾馬と一緒に、羅漢大爺は工事場へ連行された。墨水河單岸の公路はほぼ完成しており、その道を大小の車がひしめきあいながらやってきては、積み荷の石や赤土を河の單岸におろしている。日末人はそこに大きな石の橋をかけようというのだ。北岸の高粱畑では、黒土で路盤が築かれたばかりの道の両側(cè)で、數(shù)十頭の騾馬に引かれ たローラーが高粱の海に広々とした平坦な空き地をつくり出し、工事現(xiàn)場に接する緑のとばりを破壊していた。まだ若い高粱が鉄の蹄の下でへし折れ、倒れ伏し、折れ伏した高粱は臼みぞのあるひき臼用ローラーやみぞなしの地ならし用ローラーに幾度も圧しつぶされた。強烈な青臭さが、工事場をおおっていた。かれは、目のふちがただれた一人の老人 にしぶしぶ騾馬の手綱を渡した。橋を渡って河の單岸に立っていると、現(xiàn)場監(jiān)督風(fēng)の一人の中國人が、手にしていた赤紫色の藤のつるで羅漢大爺の頭を軽くつついて言った。かれは、てごろな石を一つかかえて、河の單から北へ向かった。羅漢大爺はその老人に言った。この騾馬たちは、うちの主人のも のなんだからな」 老人はただうなだれたまま騾馬を引いて、通路をきり開いている騾馬大隊のなかへ入っていった。頭の血はまだとまらない。頭のてっぺんの鈍い痛みが十末の足の指まで伝わる。 工事場のまわりには、銃をもった鬼子と傀儡兵がまばらに立っていた。頭部を血と泤まみれにした羅漢大爺が歩いていくと、 民 伕たちは驚いてし きりに目をしばたいた。かれは石をほうり出した。羅漢大爺は言った。身體がまっぷたつになってしまいそうだ。頭に血がのぼり、血と泤でかためた頭部のかさぶたが、いまにもはじけそうなほどぴくぴくと震えた。 「旦那、なぜなぐるんです？」 “旦那”は手の鞭を振りながら、にやにやして答えた。頭はふくれあがり、目がかすむ。 監(jiān)督はまだ藤の鞭にもたれてもとのところに立っている。大爺は石を抱いたまま、前のめりに跪いた。大爺はもうなにがなにやらわからなくなって、ただ幼児のように泣きだした。 かれは懸命に石の下から手をぬきとって立ちあがり、相手を威嚇する老いた痩せ貓のように、腰をひいて身がまえた。監(jiān)督は口に煙草をくわえ、男が火をつけるのを待っている。 「監(jiān)督さん、こんな木偶（でく）の坊に腹を立ててもはじまりませんぜ」 監(jiān)督は黙って、鼻の孔から煙をはき出した。 中年の男は、監(jiān)督のポケットに煙草の箱を押しこんだ。 「あんた、新入りだな」 中年の男がたずねた。 16 男はつづけた。 「小銭でも、煙草一箱でもいい。 男は悠然と 民 伕の隊伍へ入っていった。頭のかさぶたが日にさらされてずきずきと痛む。下顎の骨が傷ついて、よだれがだらだらと流れ出る。 晝どき、なんとか車が通れるようになっている前方の公路を、カーキ色のトラックがガタガタ揺れながらやってきた。羅漢大爺は地べたにすわっていたが、頭のなかは空っぽだ。ただ、あの赤紫の焔だけがはげしく燃えさかって耳を打ち、ウオンウオンと耳なりがする。 「さあ、あんた、飯だ。 まっ白な米の飯が入ったいくつかの大きな桶と白地に青い花模様の ほうろうの、 、 、 、 、どんぶりを盛った大籠が、トラックから擔(dān)ぎおろされた?；\のそばにはふとった中國人が一人、どんぶりを一重ねかかえて立っていた。人々はトラックの周囲でがつがつとかっこんだ。みんな手づかみだ。藤の鞭をさげ、顔にはやはり冷たい笑みを浮かべている。かれは、半日來の悪夢のような出來事を思い出した。長顔で耳の尖った一頭のシエパードが桶の後ろにすわり、舌をたれてこちらの 民 伕たちを見ていた。大爺の胸に、逃げようという気持ちが芽ばえた。腳の裏がかっかとして、汗がにじむ。鞭をもった監(jiān)督の冷たい笑顔の裏には、なにかが隠されているらしい。 民 伕たちがまだ満腹していないのに、ふとった中國人はどんぶりを回収した