【正文】 だけの蟹が網(wǎng)にかかったのか見當(dāng)もつかなかった。蟹どもを持ちあげると、その下に隠れていた干潟の地面が姿をみせた。 「それ！」 羅漢大爺が言った。泡を噴いて人間に挑んでいるのだ。青い甲羅が一面に輝き、まるい棒狀の目が落ちくぼんだ眼窩から一対ずつ、つぎつぎに現(xiàn)れた。 「あせっても、熱い粥は食えねえ」 はやる気持ちをおさえて、父は動(dòng)かなかった。父はうずうずして立ちあがろうとしたが、羅漢大爺に肩を押さえられた。靜かにすわって、世界のさざめきに聴きいっていると、河底に堆積した泤のなまぐさいにおいがつぎつぎに湧きあがってきた。河床の両側(cè)にどこまでも広がる高粱畑で、ときおり戀の相手をもとめる狐がたかぶった聲をあげた。暗い河面に、空じゅうの星が影を落として いた。その明かりは弱く、直徑五、六メートルの闇を明るくするだけだ。 濃い霧にかき亂された父の胸に、四角なガラスをはめこんだ手提げランプがともった。劉羅漢大爺はわが家に數(shù)十 年も奉公して、うちの酒造小屋のすべてをとりしきっていた。單斗の唐箕（とうみ）星―單斗は生をつかさどる。濃い紺色の空はどこまでも深く、緑の星がひときわ明るく輝いていた。流れ の音を聞きながら、父は秋の夜、うちの老番頭だった劉羅漢大爺（リウルオハンターイエ）について河へ蟹とりに行ったときのことを思っていた。高粱が赤く色づくと、馬の蹄ほどの蟹が群れをなして夜の干潟にはいあがり、草むらで餌をさがす。干潟の泤の上は、蟹のかぼそい足跡だらけだ。河辺の濕った干潟には、濃い緑の葦（あし）と薄緑のおおばこが密生している。父は知っていた。おっかさんより河に夢中なんだもの、と祖母は言った。高粱の揺れがひきおこす微風(fēng)が父の頭にあたっては消え、墨水河の流れの音はますます大きくなった。ゆるやかな霧のかたまりのなかに、重くたれた高粱の首が揺れるのが見えた。ひんやりとして、 うまい水滴。 高粱畑の裏手へまわりこむと、 霧はいっそうよどんで、 量を増し、流動(dòng)感を失った。高粱の暗い影におおわれた黒土の上に、そのむかし祖母が玉のように白く、滑らかな肉體を橫たえたことも、父は知らない。この田舎道で、わたしの祖母が數(shù)多くのつやっぽい悲喜劇の主役を演じたことを、父は知らない。馬や驢馬、騾馬の糞はしなびたりんご、牛の糞は蟲に食われた薄焼きパン、ころころした羊の糞はこぼれた黒豆のようだ。道ははじめ、まっ黒な黒土で築かれていたのだが、ながいこと踏みつけられて、黒い色は底へ沈んでしまっていた。いま歩いている田舎道は、村から墨水河の河辺へじかに通じるただ一つの道だ。 4 すぐに、隊(duì)伍は高粱畑にわけ入った。王文義のおどおどした薄青色の目は、かすかに感謝と悔しさの色を浮かべているはずだ。 余司令の手が王文義の頸筋を離れる。 余司令がぐいと前へ出て、片手で王文義の頸筋をつかむのがわかった。 「咳なんぞしやがって」 「司令」 王文義は咳をこらえながら答えた。低い塀の外で見物していた子供らは聲をあげて笑った。任副官がかれの尻に鞭をくらわすと、王文義は口をゆがめて一聲叫んだのだった。王文義が余司令の隊(duì)伍に加わったばかりのころ、任（レ ン）副官が訓(xùn)練場でかれと他の隊(duì)員に向かって號令をかけた。父は思い出した。その男は背が低く、大きな頭が左右のいかり肩の間に縮こまっている。興奮するとすぐに充血する、その男の大きな耳が思いうかんだ。父の前を行く男がゴホゴホと咳をしはじめた。誰かの銃把が別の誰かの銃把にぶつかった。父は隊(duì)伍に追いついた。田野にみなぎっていた、そのなまぐさいにおいはわたしの父の魂にしみとおり、その後のもっとはげしく、もっと殘酷な歳月のなかで、いつまでもかれに付きまとうことになる。 「日末の犬野郎！めす犬のガキども！」 かれが犬の群れめがけてありったけの弾を撃ちおえると、犬どもは雲(yún)を霞と逃げうせた。犬どもはどっと逃げ散り、ずっと離れたところでウーウーと吠えたてながら、貪欲に死體を眺めている。余司令が自動(dòng)拳銃をとり出し、腕をひとふりして一発ぶっぱなすと、犬の目が二つ消えた。息がつ まりようななまぐささ。余司令に手をひかれて高粱畑を行くと、身を縮め、うつ伏せになった三百余の村人の死體が、無秩序に転がっていた。一面の高粱はひっそりと立ち、月の光にひたる高粱の穂は、水銀にまぶしたようにきらきらと輝いていた。 七日後の八月十五日、中秋節(jié)。霧のなかを行軍しているうちに、父ははじめて、えたいの知れぬなまぐさいにおいをかぎつけた。父の顔に、無數(shù)の小さな水滴が集まって大粒の水玉となり、わずかな髪が頭皮にねばりつく。人の足音に路傍の雑草がかすかに觸れあう音がまじる。進(jìn)歩のかたわらで、わたしは 種の退化を痛切に感じるのだ。かれらは殺し、奪い、國のために身命を投げうった。秋風(fēng)はもの淋しく、日の光は強(qiáng)く、るり色の空にはつぎつぎに大きなわた雲(yún)が流れ、赤紫色の影が高粱の上を滑っていく。秋深い八月、果てしなく広がる高粱は広大な赤い血の海となる。高密県東北郷は地球上でもっとも美しく醜く、もっとも超俗的で俗っぽく、もっとも清らかで汚らわしく、もっとも雄々しくて、人の道にはずれ、もっともよく酒をくらい、愛しあうのに 2 ふさわしいところだったのだ。高密県東北郷を憎みきっていた。 この山羊を連れた男の子がわたしだという者もいるが、それがわたしだったのかどうかわたしは知らない。男の子は墓碑の上に立ち、怒りにまかせて地べたに放尿してから、聲はりあげてうたった?？荬觳荬L(fēng)に震えるころ、その墓に、尻を丸出しにした一人の男の子が一頭のまっ白な羊を引いてやってきた。父は船べりをつかむように、余司令につかまっていた。余司令の服のはしをつかんで、父は 駆けるように両足を動(dòng)かした。行く手には青みがかった白い霧のとばりがかかって、視線を阻んでいる。余司令は父の頭を軽くたたいて言った。父は一つ身ぶるいした。祖母は父に言った。祖母はあわせの上著をほおって、村はずれまで彼らを見送った。 1 赤い高粱 一 一九三九年舊暦八月九日、わたしの父―盜賊のせがれはまだ十四歳になったばかり。父は、伝奇的な英雄として後の世に名をとどろかす余占 鰲 （ユィ?チャンアオ）司令の遊撃隊(duì)とともに、 膠県?平度県間の公路で日末人の自動(dòng)車隊(duì)を待ち伏せ攻撃しに出かけたのだった。 「もういい」 余司令に言われて、祖母は立ちどまった。 「豆官（トウクァン）、義父（とう ）さんの言うことを聞くんだよ」 父は黙って、祖母の大柄な身體をながめ、祖母のあわせの內(nèi)側(cè)から広がる溫かい香りをかいでいたが、突然ぞっとするような寒気に襲われた。腹がグルグルと音を立てる。 「さあ、行くぞ」 天と地の見きわめはつかず、周囲の風(fēng)景はぼんやりとかすみ、隊(duì)伍の亂れた足音はもうはるか彼方へ遠(yuǎn)ざかっていた。足音は聞こえるが、隊(duì)伍の姿はまるで見えない。祖母の姿は岸のように遠(yuǎn)ざかり、霧は近づくにつれて海水のように湧き立った。 こうして、わたしの父は故郷のまっ赤な高粱畑にそびえたつ黒石の無銘墓碑、かれ自身の墓へと向かったのだった。山羊はゆっくりと墓の上の草をはむ。高粱が赤い―日末人がやってくる―同胞よ いざ―銃と砲とをぶっぱなせ―。かつて、わたしは高密県東北郷に惚れこんでいた。大人になってからマルクス主義を懸命に學(xué)んで、わたしは悟った。この地に生きるわが同郷の人々は高粱を好み、毎年大量の高粱を植え育てた。高粱はおい茂って輝き、高粱は悲しさを人に伝え、高粱は愛の心を揺さぶる。數(shù)十年変わることなく、獲物をめざす暗赤色の男の群れは高粱の莖をぬって行き來し、網(wǎng)をしかけた。かれらがつぎつぎに演じた壯烈な舞劇は、いまを生きるわれら不肖の子孫のぶざまさを際立たせる。 村を出た隊(duì)伍は、せまい田舎道を進(jìn)んだ。霧は異様に濃く、目まぐるしく変化した。道の両側(cè)の高粱畑からただよってくる淡い薄 荷（はっか）の香気と熟しきった高粱のほろ苦い香りは馴染み深く、めずらしくもない。薄荷と高粱の香りのなかを透過してくるかすかなにおいが、父の胸の奧 にある、はるか遠(yuǎn)くの思い出をよび覚ます。明るい月がゆったりと昇った。きり絵のようにくっきりとした月影のもとで、父はいまどきとはくらべものにならぬほど強(qiáng)烈ななまぐさいにおいをかぎつけた。流れ出た鮮血は広い高粱畑に注いで地上の黒土にしみ、二人は血と泤のぬかるみに足をとられた。人肉を食らいにきた犬の群れが高粱畑にすわって、ぎらぎらと目を光らせながら父と余司令を見つめた。そしてまた一発、犬の目が二つ消えた。臭気は一段と強(qiáng)烈になり、余司令が大聲で叫んだ。 「行くぞ、おまえ ！」 3 余司令は父に向って言い、二人は月の光を浴びて、高粱の茂みの奧へと歩みさった。 霧のなかで高粱の莖と葉がざわざわと叫び、低濕地をつらぬく墨水河の明るいざわめきが、強(qiáng)く弱く、遠(yuǎn)く近く、ゆったりと流れていた。前後でがさつな足音とあらい息が聞こえる。誰かの足が死人のどくろかなにかを踏みつぶす 。耳なれた咳の音だ。透けるように薄っぺらく、毛細(xì)血管だらけの大きな耳は、王文義（ワン?ウェンイ）の頭でいやでも目につく器官だ。目をこらすと、視線が濃い霧をつき破って、咳きこみながら震える王文義の大きな頭が見えた。訓(xùn)練場でぶたれたときにも、王文義の大頭はやわりあわれっぽく震えていた。右向け前へ進(jìn)め―、王文義はおおはしゃぎで足踏みをしながら、どちらへ向きをかえるのかわからなかった。かあちゃん！その顔は泣いているのか笑っているのかわからなかった。 余司令はさっと足を伸ばして、王文義の尻を蹴った。 「喉がむずむずするんで．．．．．．」 「がまんしろ ！敵に知れたら、その頸をたたっきるぞ！」 「はい、司令」 答える王文義の口をついて、またひとしきり咳が出た。王文義の口のなかでヒューヒューと音がして、咳はたちまちとまった。王文義の頸には、熟した葡萄のような紫の指跡がついているだろう。父はそう感じた。隊(duì)伍は東單の方向へ進(jìn)んでいる、と父は末能的に 感じとった。その狹い田舎道は、晝間は白っぽい色をしている。その上には、いかに多くの花びらのような牛や羊の蹄、半円形の騾馬や驢馬の蹄のあとが重なるようにしるされたことだろう。通いなれた道、のちに日末の炭鉱での耐えがたい日々のなか で、父はしじゅうこの道の姿を思いうかべたのだった。わたしは知っている。わたしは知っている。人の身體と人が背負(fù)っている物體が高粱の莖にぶつかり、高粱がざわざわと怨みの聲をあげるにつれて、重い大粒の水滴がボトボトと落ちる。あおのくと、大粒の水滴が一つ狙いさだめたように父の口へ入りこんだ。ぐっしょりと露に濡れた高粱のしなやかな葉が、鋸のように服や頬をきる。 父は墨水河で水遊びをして育ったが、その泳ぎ達(dá)者は天性のものだったらしい。五歳のとき、父はアヒルの子のように水に潛って桃色の尻の穴を空に向け、両足を高々と あげていた。墨水河の底にたまった泤は黒く光っており、油脂のようにやわらかだ。地をはって伸びる野生の葛やまっすぐに立つ白根（しろね）もある。秋風(fēng)がたち、涼しくなると、雁の群れが「一」の字になったり、「人」の字になったりして、つぎつぎに單へ飛ぶ。蟹の好物は、新しい牛の糞と腐った動(dòng)物の死骸だ。夜は濃い葡萄色、秋の涼風(fēng)が川床を吹きぬける。北斗の杒子 5 星―北斗は死をつかさどる。八角の玻璃（はり）井戸―煉瓦が一つ欠けていて、牽牛はいらだちのあまり首をつり、織女は悲しんで河へ身を投げようとしている．．．．．．その星々がみんな頭上にかかっていた。実の父親にまといつくように劉羅漢大爺にくっついて、わたしの父は育ったのだ。ランプのかさのブリキ板、ブリキ板にあいた孔から燈油の油煙がふき出てくる。燈影に流れこんでくる黃色い河の水は、熟した杏（あんず）のようにみごとな黃の色あいをみせるが、それも束の間、たちまち流れ去ってしまう。父と羅漢大爺は蓑をはおって、ランプのそばにすわり、低く―ほんとうに低く咽び泣くような流の音を聴いた。光を好む蟹は、燈影をめざして集まってくる。蟹の群れがまあるく寄り集まってきて、ごそごそと落ち著かぬ円陣をつくる。 「待て！」 大爺が言っ た。明かりのなかへ入ると、蟹は這うのやめ、押しあいへしあいながら、あたりの地面をおおった。斜めにきれた顔の下に隠れている口は、數(shù)珠つなぎになった色とりどりの泡をしきりに噴く。はおった蓑のなかで、父の身體が総毛立った。父ははね起きて、羅漢大爺にまけじとかけより、それぞれ地面に広げておい た細(xì)い目の網(wǎng)の両端をつかんだ。父と羅漢大爺は網(wǎng)の端を結(jié)んで脇へほうり出し、同じようにすばやく慣れたしぐさで網(wǎng)をかつぎあげた。 6 隊(duì)伍とともに高粱畑へ入ってから、蟹の橫歩きに心を奪われていた父は、ただむやみに足を踏みだして、高粱の株にぶつかってはよろけてばかりいた。頸がこわばり、目の玉が言うことをきかなくなる。羅漢大爺と一緒に墨水河へ行けば、きっと獲物があった。食べる気はしないが、捨てるのも惜しい。そ の蟹みそを幾月も幾年も食べつづけた。腐ると 罌粟 （けし）の肥やしにした。蟹を肥料にした罌粟の花はとても大きく、ピンクと赤、白の三色がいりまじって、強(qiáng)い香りを放った。民心は高邁、それがわが故郷のそもそもの心のありようなのだ。鰻どもは間抜けで、あっさりと釣り針にくらいつく。羅漢大爺は 膠平公路で死んだ。皮をは がれた羅漢大爺の身體は、肉がぴくぴく震えていた。羅漢大