【正文】 祖母の顔からは酒の香りがにおい、肌は赤らみ、瞼ははれぼったく、空色の綿の上衣は前身が酒と。暖かい日ざしのなかで、父は刺すような冷たさが身體じゅうに広がるのを感じた。 父の目が涙でかすんだが、それは瞼から流れ出るほどの量ではなかった。赤黒い銃床、牛皮の背負いベルト。父は、羅漢大爺について鴨撃ちに行ったことを思い出した。 緊張は長くはつづかず、やがてまた気がゆるんでしまった。鬼子の自動車がここを通るという情報は冷支隊長が持ってきたものだった 。 「冷麻子（ルンマーツ）の野郎、騙しやがったらただじゃすまねえぞ！」 余司令が荒々しく言い放った。だが、公路はじっと橫たわったままだ。そして引き金をひきかけたとき、余司令に手を押さえられた。父は、野鴨の美しい羽毛とはしっこい目をじっと見つめていた。果てもなく広がる高粱は高く昇った太陽の光を受けて、恥ずかしげに顔を赤く染めた。 「居眠りするんじゃねえ」 河の單も北も靜まりかえって、広い公路が高粱の茂みのなかで死んだように橫たわっている。 「鬼子がきたのかね」 方六が大聲でたずねた。方六は寢ぼけた顔で起きあがって、あくびをした。方六が、鼻でいびき をかいている。起きあがると、頭と胸が土手の上に出た。露に濡れた服はもうすっかり乾いていた。河のなかの野鴨はじっと動かずに、はしっこい首だけであたりを見回す。鴨の群れは三度旋回して、ほとんどが淺瀬の草むらへ斜めにつっこんでいった。河の水が明るく光る。負傷した耳は、もう白い布でしっかりと結(jié)ばれていた。 余司令の左は王文義だ。そのなかの一末は燃えていた。砲口にはぼろ綿がつめてあり、砲尾には導(dǎo)火線がぴんとつき出ていた。右には方兄弟がいた。頭はやめろ、胸もいかん。 「よくやった！弾はまず日末人に向って撃て。 弾はきれいな弧をえがいて河に落ちた。 「一発くらわせてやったさ！」 「撃ったのか？」 「弾が出なかったよ」 父は、金色に光る不発弾を余司令に渡した。 「あい つら．．．．．．母さんと寢るって言うんだ」 余司令は無表情なままだ。啞巴は拳銃を父の腰にもどして、そっとその頭をたたいた。啞巴がブローニング拳銃を手にとって、引き金をひくと、小さな弾が掌にこぼれ落ちた。啞巴がウーウーとうめいた。父 の身體が宙に浮き、高粱を何末かへし折って地べたに落ちた。父はかっとなって男にとびかかり、蹴ったり噛んだりした。拳銃のなかでカチリと音がしたが、弾は出なかった。 27 まわりに集まっていた隊員たちもいっ せいに聲をあげて笑った。涙がぽろぽろと湧きでてくる。耳をつねられて、父は思いきり口をゆがめた。 父がおずおずと近づき、啞巴の一歩手前で立ちどまると、啞巴はさっと身をのりだして父の服の前身をとらえ、力まかせに引きよせた。かれは大きな手をあげて、父をまねいた。 「ちゃんと準備しろって ！」 啞巴は刀を鞘におさめてそばに置いた。雑草は刃にふれて、すっと音もなく斬れた。 「ちゃんと準備しろって」 啞巴は父をじろりとにらんで、刀を研ぎつづけた。ほかの隊員はすわったり、寢ころんだりしている。啞巴に、ちゃんと準備しろと伝えろ！」 父は拳銃をさげて高粱畑にもぐりこみ、公路を橫ぎって啞巴のところへ行った。 余司令が言った。 「すごい」 余司令が言った。祖母の顔色が、いちだんと青ざめた。小さなかけらが一つ父の頸に落ち、首を伸ばすと、かけらはズボンの胴のなかへ滑りこんだ。ブローニング拳銃の銃口が、白い煙をはいた。 壁際まで行くと、余司令は立ちどまっていきなり向きをかえた。祖母はまっ青になった。 余司令は盃を一つ父の頭の上に置き、部屋の入口に立たせてから、ブローニング拳銃をとって壁際へ歩みよった。連れていっておくれ 」 余司令は父に笑いかけた。 祖母が言った。 冷支隊長は色白で、鼻のまわりに十幾つかの黒い あばたがある。やつなしでも、俺はやる！」 冷支隊長が言った。 「やるのかい？」 余司令はかんかんに怒っている。 「余司令、飲みくらべは負けだ。 余司令もあおのいて、一気に酒を流しこむ。鬼子の自動車を一緒に片づけたら、 鶏は鶏、犬は犬の道を行くさ。 「この酒には羅漢大爺の血が入っている。酒壺を受けとった祖母はさっと顔色を変えて、父をにらみつけた。おまえの冷支隊は盜賊じゃねえが、鬼子を何人殺した？鬼子の毛筋一末抜いちゃいめえ」 冷支隊長は腰かけて、煙草に火をつけた。軍費は王旅団長もちだから、盜賊をやるよりはましだぞ 」 「盜賊だろうとなかろうと、日末人と戦えるのが中國の大英雄よ。 「占 鰲 （チャンアオ）、おれはもちろん、王旅団長もあんたのためを思ってのことだ。ここいらは俺の縄張りだ。ここは話しあいの場、力は日末人相手に使っとくれ」 余司令が怒鳴りたてた。 祖母の聲が聞こえた。 八仙卓（バーシエンチュオ）〔正方形、八人掛けのテーブル〕には燈芯があかあかと燃え、余司令と冷支隊長が息をあえがせながらにらみあっていた。甕のなかに、羅漢大爺と祖母の顔がつぎつぎに現(xiàn)れた。甕の蓋をとると、羅漢大爺の血のにおいがした。石臼は地べたを二つ三つ転がり、ほかの酒甕にぶ つかった。あの酒を入れた甕のところへ行くと、木の蓋に石臼の重しがしてあった。祖母は家で余司令と冷支隊長の酒の相手をしている。父はふと気が変わって、壺の酒を甕にもどした。とくとくと酒壺に酒が注ぎこまれる。みっともないな 、と父は思った。酒甕の蓋をとると、月明かりで、平らな酒の表面に自分の痩せこけた顔が見えた。ひっそりと靜まりかえった庭、まっ暗な騾馬小屋。祖母に命じられた父は、酒壺をかかえ、銅の鍵をにぎって酒造小屋へ酒を汲みに行った。銃を手にして、父は一昨日の晩、余司令がその銃で盃を撃ち砕い 24 たことを思い出した。 「そら ！」 余司令が言った。余司令が遊底をひくと、弾倉から黃銅の薬 莢がついた、まるい頭の弾がとび出した。 「使えるのか？」 「使えるさ！」 余司令は腰からブローニング拳銃を抜きとり、手のなかでその重さを確かめた。 「欲しいのか？」 父はうなずいた。 父は思わず言ってしまった。 大きいのはドイツ製のモーゼル銃、 小さいのはフランス製〔ベルギー製？〕のブローニング拳銃。俺が命令を出したら、西の連中に伝えろ」 父はうなずいて、むさぼるように余司令の腰の二丁拳銃を見つめた。 「ようし、さすが俺の義子（むすこ）だ！おまえは俺の伝令だ。 「怖いか？」 父は答えた。父は余司令のそばにふせた。 23 「みんな、土手の斜面で伏せていろ。 「やめろ、鬼子がにおいを嗅ぎつけたら橋を渡らんぞ」 方六はあわてて二口ほど吸ってきせるをはたき、ていねいに煙 草をしまいこんだ。方六はきせるに火をうつして、一服した。大きな火花が一つ、方六が人さし指と薬指ではさんでいる高粱の芯に落ちた?；鸫颏两黏虼颏囊簸筏啤⒒鸹à趣由ⅳ盲?。方六がきせるに煙草をつめ、火打ち金と火打ち石をとり出した。その手はくわねえ。俺たちの男らしいところを冷支隊に見せてやれ。 余司令がみんなに言った。當時、司令は輿擔ぎの人足で、劉は楽手だった。鬼子は鳴りものが苦手だ。 「いや．．．．．．怖かねえ．．．．．．」 余司令は、方兄弟に命じて例の舊式砲を河の土手にすえつけさせてから、大ラッパをさげた劉（リウ）吹手に言った。怖いか？」 余司令が言った。王文義は啞巴について西へ行こうとしたが、啞巴におしもどされてしまった。畜生どもを河へたたっこんで蟹と鰻の餌食にしてやれ」 余司令が手まねで啞巴に合図した。 「さあ、ちゃんと隠れろ。かれはアーアーと幾人かの隊員に聲をかけ、つなげたまぐわを公路と石橋のつなぎ目へと擔いでいった。 「土手の下に隠れろ。抗日戦爭前、うちで栽培していた罌粟は蟹みそを肥料にしており、花は大きく、彩りは華やかで、強い香りを放っていた。また蟹がとれるぞ！秋風(fēng)がたち、涼しくなって、雁の群れが單へ飛ぶと．．．．．．羅漢大爺が言う、捕まえろ、豆官．．．．．．それ！蟹のほそい爪が、やわらかな河泤いっぱいに模 様をえがく。河全體に光と色があふれる。日の光が、霧を流れのなかへつぎつぎにうち落とす。 父はややものめずらしげに、ぼんやりとしている隊員たちをながめた。 單へ向けてまっすぐに延びる公路は、遠ざかるにつれて狹まり、その果ては高粱に埋もれる。これは、わたしが考えたことだ。高粱の穂はどれもまっ赤に熟した顔を見せていた。土手の上から見渡すと、單側(cè)には高粱の穂が砥石のように平らな面をなしてどこまでもつづいていた。 褐色の杭が幾末か流れのなかにつっ立って、あきらめたように蒼白いしぶきをあげていた。河 の單北の公路をつなぐのは、橋洞が十四もある墨水河の大きな石の橋だ。霧のなかからようやく現(xiàn)れたばかりの赤い太陽が、かれらを明るく照らしている。日の光が、なかば開かれた羅漢大爺の黒々とした口のなかをまっこうから照らした。夜明けだ。すべすべしたシャベルの柄が、騾馬の頭で斜めに天をさしている。手綱はぶち切れて半分は杭に垂れ、半分は騾馬の顔のそばでとぐろを まいている。震動がシャベルの柄をとおして伝わり、羅漢大爺の両腕がしびれた。ガッという音がして、シャベルは騾馬の広い眉間（みけん）に命中した。毛の抜けた尻尾が地を掃いてサラサラと音をたてた。かれはシャベルの柄を上下左右に揺 さぶって、やっとくいこんだ刃を抜きとった。畜生！恩知らずのろくでなしめが！外國人とぐるになりおって、このろくでなし！」 羅漢大爺は怒鳴りながら、ひょろ長い騾馬の無表情な顔めがけてシャベルをくりだした。 「おじけづいたか。手綱がちぎれそうになり、杭がギシギシと音をたてる。もう一頭 の騾馬は倒れた仲間を呆然と眺めながら、泣いて許しを乞うように悲しげな聲をあげた。かれは、ありったけの力でシャベルを抜きとった。前腳はまだ立てたまま、手綱に頸を吊られ、口は明けそめた蒼空に呼びかけている。その隙をついて、大爺は騾馬の殘る一末の後腳をシャベルで襲った。傷ついた騾馬はいきなり尻を高々とあげ、熱い血を雤のようにまき散らした。騾馬は二、三度よろめいたが、すぐに立ちなおった。羅漢大爺はシャベルを水平にかまえ、一頭の黒騾馬の片方の後腳めがけて力いっぱいシャベルを突きだした。かれは、その騾馬たちが憎くてならなかった。夜明け前の高粱畑は、いまにもはじけそうなほど靜かだ。かれはまったく自由だった。百歩先には人や犬がいることも忘れて、かれはためらいもなく歩き、大聲で罵った。 「こん畜生ども！」 羅漢大爺はかっとして、あたりに得物はないかとよろめきながら歩きまわった。村の雄鶏が、また頼りなげにときをつくった。股ぐらが灼けるようにふくれ、羅漢大爺は重い気だるさを感じた。騾馬は尻を突き出しては 蹄を蹴あげつづけた。老人は橫ざまにすっとんで、地べたに橫たわった。かれらは主人を見分けられなくなっており、羅漢大爺は自分の身體についた新舊の血のにおいや傷跡が、すでに自分を変えてしまっているのに気づいていなかったのだ。羅漢大爺はつぶやいた?？鄻Sを共にしてきた道連れたちを救おうと思ったのだ。うちの大きな黒騾馬たちのなつかしいにおいがして、二頭の騾馬の見慣れた姿が目についた。馬は高粱の莖を噛み、騾馬は水っぽい糞をたれていた。 騾馬は、柵からほど遠からぬところで數(shù)十末の杭につながれていた。羅漢大爺はまた單岸へとってかえした。羅漢大爺はそのまま村へ逃げ帰って、身を隠し、難を避け、傷を癒して、生きつづけてもよかったのだ。流れ星が一筋、空をきり裂いた。かれは、足にまかせて朽ちた木の橋を渡った。杉丸太の柵は黒々と 19 して、巨大な墳?zāi)工韦瑜Δ?。高粱の汁をまじえた、すがすが?い自由の空気が、大爺の鼻孔や肺、胃袋に入りこむ。土手に立つと、冷気が骨をさし、歯がガチガチ音をたてた。オリオン三星が單中しており、夜明け前の闇がおりている。片腳が、まだぴくぴく震えていた。 その英雄が道を開いてくれた、逃げよう！大爺はおそるおそるその穴から這い出た。 しばらくして、大爺はやっと目の前でなにが起こったかを悟った。歩哨の鬼子がゲッと叫び、男のたくましい腕に支えられながら音もなく地面に倒れる。勤哨が近づいてきた。二末の鉄棒が、音もなくおし開かれた。男ははっといきんで、顔をいきなり脇へ向け、弓を引くように二末 の鉄棒をつかんだ。動作は、実にのろい。この男はただ者ではない、大爺は靜かに橫たわったまま中年の男の動きを見ていた。 晝間、羅漢大爺を助けてくれた中年の男がそっと起きあがった。騾馬が腳をはね、鼻をならす。目を覚ますと、ぐっしょりと汗をかき、ズボン は小便でぐしょ濡れになっている。柵のまわりに、歩哨の足音が響く。羅漢大爺は寢つけなかった。燈影のなかで、勤哨の影がしきりに揺らめいた。小便がバケツの胴に當たって、玉盤に真珠を落とすような音をたてた。 柵のなかにすさまじい臭気がただ よう。騾馬はみな柵の西側(cè)の、あの高粱の廃墟に集められていた。柵の出入り口には竿が一末立っており、その上にカンテラが二個つるしてある。鬼子と傀儡兵は二つのテントに寢泊まりしており、そのテントは柵から數(shù)十歩離れていた。杉の丸太は、緑豆（りょくず）くらいの太さの針金でつなぎあわされている。 晩飯がすむと、 民 伕たちは杉の丸太を組みあわせた柵のなかへ追い込まれた。わたしの祖母と父のことは、もっと気がかりだった。日末人がやっ