【正文】 ると、板庇いたびさし の下に 傾かたむ きかけていた 一叢ひとむら の 修竹しゅうちく が、そよりと夕風を受けて、余の肩から頭を 撫な でたので、すでにひやりとした。 棟むね の高い大きな家に女がたった二人いた。今では土地の名も宿の名も、まるで忘れてしまった。その時ある晩、ある所へ 宿とまっ た。 生れてから、こんな経験はただ一度しかない。 給仕の時には 、近頃は客がないので、ほかの座敷は掃除がしてないから、普段ふだん 使っている部屋で我慢してくれと云った。と云うて、 田舎染いなかじ みてもおらぬ。 不思議に思ったのは、宿へ著いた時の取次も、 晩食ばんめし の給仕も、 湯壺ゆつぼ への案內も、床を敷く面倒も 、ことごとくこの小女一人で弁じている。 昔むか し來た時とはまるで見 21 當が違う。 宿へ著いたのは夜の八時頃であったから、家の 具合ぐあい 庭の作り方は無論、東西の區(qū)別さえわからなかった。路みち はわるいが、御若い方にはその 方ほう がよろしかろ。 「御婆さん、那古井へは一筋道だね」と十銭銀貨を一枚 床幾しょうぎ の上へかちりと投げ出して立ち上がる。 七曲ななまが りの険を 冒おか して、やっとの 思おもい で、ここまで來たものを 、そうむやみに俗界に引きずり 下おろ されては、 飄然ひょうぜん と家を出た 甲斐かい がない。 …… 」 これからさきを聞くと、せっかくの 趣向しゅこう が 壊こわ れる。世間では嬢様の事を不人情だとか、薄情だとか色々申します。ところへ今度の戦爭で、旦那様の勤めて御出の銀行がつぶれました。 「那古井の嬢様にも二人の男が 祟たた りました。ついでに長良ながら の 乙女おとめ の墓を見て御行きな され」 余は心のうちに是非見て行こうと決心した。身の成り行きがで御座んす」 「へえ、その長良の乙女と云うのは何者かい」 「 昔むか しこの村に長良の乙女と云う、美くしい 長者ちょうじゃ の娘が御座りましたそうな」 「へえ」 「ところがその娘に二人の男が一度に 懸想けそう して、あなた」 「なるほど」 「ささだ男に 靡なび こうか、ささべ男に靡こうかと、娘はあけくれ思い 煩わずら ったが、どちらへも靡きかねて、とうとう あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも と云う歌を 詠よ んで、 淵川ふちかわ へ身を投げて 果は てました」 余はこんな山里へ來て、こんな婆さんから、こんな 古雅こが な言葉で、こんな古雅な話をきこうとは思いがけなかった。婆さんが云う。著て見せましょ」 余はまさかと思ったが、婆さんの様子は存外 真面目まじめ である。 湯治場とうじば へ御越しなされば、きっと出て御挨拶をなされましょう」 「はあ、今では里にいるのかい。 「さぞ美くしかったろう。指を折って始めて、五年の流光に、転輪の 疾と き 趣おもむき を解し得たる婆さんは、人間としてはむしろ 仙せん に近づける方だろう。 「あれは 那古井なこい の男かい」 「はい、那古井の源兵衛(wèi)で御座んす」 「あの男がどこぞの嫁さんを馬へ乗せて、 峠とうげ を越したのかい」 「志保田の嬢様が城下へ 御輿入おこしいれ のときに、嬢様を 青馬あお に乗せて、源兵衛(wèi)が覊絏はづな を 牽ひ いて通りました。源さんの馬も歩行出す。 「帰りにまた 御寄およ り。空に尾を 曳ひ く 彗星すいせい の何となく妙な気になる。これは駄目だと、せっかくの図面を 早速さっそく 取り 崩くず す。不思議な事には 衣裝いしょう も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。この景色は 畫え にもなる、詩にもなる。馬であった?！冈搐丹蟆ⅳ铯郡筏?、お嫁入りのときの姿が、まだ 眼前めさきに散らついている。 「コーラッ」と 叱しか りつける源さんの聲が、じゃらん、じゃらんと共に余の冥想めいそう を破る。 枝繁えだしげ き山桜の葉も花も、深い空から落ちたままなる雨の 塊かた まりを、しっぽりと宿していたが、この時わたる風に足をすくわれて、いたたまれずに、仮か りの 住居すまい を、さらさらと 転ころ げ落ちる。近頃はちっとは具合がいいかい」 「なあに、相変らずさ」 「困るなあ」と婆さんが大きな息をつく。あの 那古井なこい の嬢さまと比べて御覧」 「本當に御気の毒な。な、 御叔母 おば さん」 「ありがたい事に 今日こんにち には困りません。一枚か。 「おや源さんか。 馬子まご 唄や 白髪しらが も染めで暮るる春 と次のページへ 認したた めたが、これでは自分の感じを云い 終おお せない、もう少し 工夫くふう のありそうなものだと、鉛筆の先を見詰めながら考えた。最前 逢お うた五六匹のじゃらんじゃらんもことごとくこの婆さんの腹の中でまた誰ぞ來たと思われては山を 下くだ り、思われては山を登ったのだろう。 16 「また誰ぞ來ました」と婆さんが 半なか ば 獨ひと り 言ごと のように云う。憐れの底に気楽な響がこもって、どう考えても 畫え にかいた聲だ。今の世の馬とは思われない。山を登ってから、馬には五六匹逢った。眠りながら、夢に隣りの臼の音に誘われるような心持ちである。帳面をあけて 先刻さっき の鶏を靜かに寫生していると、落ちついた耳の底へじゃらんじゃらんと云う馬の鈴が 聴きこ え出した。それ じゃ 泊と めてくれないかも知れんね」 「いえ、御頼みになればいつでも 宿と めます」 「宿屋はたった一軒だったね」 「へえ、 志保田しほだ さんと御聞きになればすぐわかります。 旦那だんな は 湯治とうじ に 御越おこ しで …… 」 15 「込み合わなければ、少し 逗留とうりゅう しようかと思うが、まあ気が向けばさ」 「いえ、戦爭が始まりましてから、 頓とん と參るものは御座いません。しかしそんな注文も出來ぬから、 「ここから 那古井なこい までは一里 足た らずだったね」と別な事を聞いて見る。 「はい。余が寫生帖を取り上げて、今しばらくという 途端とたん に、婆さんの姿勢は崩れた。 金屏きんびょう にも、 春風はるかぜ にも、あるは桜にもあしらって 差さ し 支つ かえ ない道具である。あの 面めん は定めて名人の刻んだものだろう。 紅葉もみじ のなかか、寒い月の下に置くべきものと考えた。畫家として余が頭のなかに存在する婆さんの顔は 高砂たかさご の媼ばば と、 蘆雪ろせつ のかいた 山姥やまうば のみである。そら 天狗巌てんぐいわ が見え出しました」 逡巡しゅんじゅん として曇り勝ちなる春の空を、もどかしとばかりに吹き払う山 14 嵐の、思い切りよく通り抜けた 前山ぜんざん の 一角いっかく は、未練もなく晴れ盡して、老嫗ろうう の指さす 方かた にと、あら 削けず りの柱のごとく 聳そび えるのが天狗巖だそうだ。 軒端のきば を見ると青い煙りが、突き當って 崩くず れながらに、 微かす かな 痕あと をまだ 板庇いたびさし にからんでいる。 「さあ、 御お あたり。 此辺ここら は夏も鳴きます」 「聞きたいな。余は 懐ふところ から寫生帖を取り出して、婆さんの橫顔を寫しながら、話しをしかける。糞ふん はどこぞに著いておらぬかと 眺なが めて見たが、それは箱 のなかに取り殘されていた。茶の色の黒く 焦こ げている底に、 一筆ひとふで がきの梅の花が三輪 無雑作むぞうさ に焼き付けられている。雄の方が逃げるとき駄菓子の上へ 糞ふん を 垂た れた。まあ御茶を一つ」 と立ち上がりながら、しっしっと 二聲ふたこえ で 鶏にわとり を追い 下さ げる。今火を 焚た いて 乾かわ かして上げましょ」 「そこをもう少し 燃も しつけてくれれば、あたりながら乾かすよ。 「御婆さん、ここをちょっと借りたよ」 「はい、これは、いっこう存じませんで」 「だいぶ降ったね」 「あいにくな御天気で、さぞ御困りで御座んしょ。余の席からは婆さんの顔がほとんど 真ま むきに見えたから、ああうつくしいと思った時に、 その表情はぴしゃりと心のカメラへ焼き付いてしまった。 箒ほうき を 擔かつ いだ爺さ んが 橋懸はしがか りを五六歩來て、そろりと 後向うしろむき になって、婆さんと向い合う。 二三年前 寶生ほうしょう の舞臺で 高砂たかさご を見た事がある。ここらが非人情で面白い。しかし自分の 見世みせ を 明あ け放しても苦にならないと見えるところが、少し都とは違っている。線香は 呑気のんき に燻っている。 竈へつい に火は燃えている。なかから一人の婆さんが出る。雨はしだいに収まる。まるで余を狐か 狗いぬのように考えているらしい。障子しょうじ がしめてなければ奧まで 馳か けぬける気かも知れない。鶏にわとり は 羽摶はばた きをして 臼うす から飛び下りる。幸い下は 焚た きつけてある。ククク、クククと騒ぎ出す。 「おい」とまた聲をかける。五六足の 草鞋わらじ が 淋さび しそうに 庇ひさし から 吊つる されて、 屈托気くったくげ にふらりふらりと揺れる。 軒下のきした から奧を 覗のぞ くと 煤すす けた 障子しょうじ が立て切ってある。非人情がちと強過ぎたようだ。終りには肩をすぼめて、恐る恐る歩行た。初めは帽を傾けて 歩行あるい た。 落花啼鳥らっかていちょう の情けも心に浮ばぬ。依然として 市井しせい の一 豎子じゅし に過ぎぬ。 有體ありてい なる 己おの れを忘れ 盡つく して純客観に眼をつくる時、始めてわれは畫中の人物として、自然の景物と美しき調和を 保たも つ。気持がわるいから、帽を傾けて、すたすた 歩行ある く。 糠ぬか のように見えた粒は次第に太く長くなって、今は 一筋ひとすじ ごとに風に 捲まかれる 様さま までが目に 入い る。 「ここらに休む所はないかね」 「もう十五丁行くと茶屋がありますよ。 路は 存外ぞんがい 広くなって、かつ 平たいら だから、あるくに骨は折れんが、雨具の用意がないので急ぐ。出すかと思うと、隠れる。左はすぐ山の 裾すそ と見える。時々風が來て、 10 高い雲を吹き払うとき、薄黒い山の 背せ が右手に見える事がある。煮え切れない雲が、頭の上へ 靠垂も た れ 懸かか っていたと思ったが、いつのまにか、 崩くず れ 出だ して、 四方しほう はただ雲の海 かと怪しまれる中から、しとしとと春の雨が降り出した。余念もなく美か美でないかと 鑒識かんしきする事が出來る。あぶな 気げ なしに見られる。そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐ふところ には容易に飛び込めない訳だから、つまりは 畫え の前へ立って、畫中の人物が畫面の 中うち をあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。面倒になればなるほど美的に見ている 訳わけ に行かなくなる。畫中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。動いても構わない。もっとも畫中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な 真似まね をするだろう。 芭蕉ばしょうと云う男は 枕元まくらもと へ馬が 尿いばり するのをさえ 雅が な事と見立てて 発句ほっく にした。まるで人情を 棄す てる訳には行くまいが、根が詩的に出來た旅だから、非人情のやりついでに、なるべく節(jié)倹してそこまでは 漕こ ぎつけたいものだ。 そのまま の上へ蕓術という著物を何枚も著せて、世の中にあるまじき悠長ゆうちょう な 振舞ふるまい をするからである。しかしあれは 情じょう 三 分蕓ぶげい 七分で見せるわざだ。能にも人情はある。どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、 浮世小路うきよこうじの何軒目に狹苦しく暮した時とは違うだろう。レオナルド ? ダ ? ヴ?ンチが弟子に告げた 言ことば に、あの 鐘かね の 音おと を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。それどころか、山を越えて落ちつく先の、 今宵こよい の宿は 那古井なこい の 溫泉場おんせんば だ。じんじん 端折ばしょ りの 頬冠ほおかむ りや、赤い 腰巻こしまき の 姉あね さんや、時には人間より顔の長い馬にまで逢う。いくら雲雀と菜の花が気に入ったって、山のなかへ野宿するほど非人情が 募つの ってはおらん。やはり余った菊は花屋へ売りこかして、 生は えた 筍たけのこ は 八百屋やおや へ払い下げたものと思う。 もちろん人間の 一分子いちぶんし だから、いくら好きでも、非人情はそう長く続く訳わけ には行かぬ。淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの 間ま でも 非人情ひにんじょう の天地に 逍遙しょうよう したいからの 願ねがい 。フ?ウストよりも、ハムレットよりもありがたく考えられる。余は 固もと より詩人を職業(yè)にしておらんから、 王維おうい や淵明えんめい の 境界きょうがい を今の世に 布教ふきょう して広げようと云う心掛も何もない。 二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。この乾坤の 功徳くどく は「 不如帰ほととぎす 」や「 金色夜叉こんじきやしゃ 」の功徳ではない。 獨ひとり坐幽篁裏ゆうこうのうちにざし 、 弾琴きんをだんじて 復長嘯またちょうしょうす 、 深林しんりん人不知ひとしらず 、 明月來めいげつきたりて 相照あいてらす 。垣の向うに隣りの娘が 覗のぞ いてる訳でもなければ、 南山なんざん に親友が奉職して いる次第でもない。 採菊きく