【正文】 を一枚 床幾しょうぎ の上へかちりと投げ出して立ち上がる。 宿へ著いたのは夜の八時頃であったから、家の 具合ぐあい 庭の作り方は無論、東西の區(qū)別さえわからなかった。 不思議に思ったのは、宿へ著いた時の取次も、 晩食ばんめし の給仕も、 湯壺ゆつぼ への案內(nèi)も、床を敷く面倒も 、ことごとくこの小女一人で弁じている。 給仕の時には 、近頃は客がないので、ほかの座敷は掃除がしてないから、普段ふだん 使っている部屋で我慢してくれと云った。その時ある晩、ある所へ 宿とまっ た。 棟むね の高い大きな家に女がたった二人いた。來年は 筍たけのこ が椽を突き抜いて座敷のなかは竹だらけになろうと云ったら、若い女が何にも云わずににやにやと笑って、出て行った。余はとうとう夜の明けるまで一睡もせずに、怪し気な 蚊帳かや のうちに 辛防しんぼう しながら、まるで 草雙紙くさぞうし にでもありそうな事だと考えた。 大徹だいてつ という 落款らっかん もたしかに見える。しかし 現(xiàn)げん に大徹とあるからには別人だろう。 橫を向く。床の隣りは違い棚を略して、普通の戸棚につづく。 長良ながら の 乙女おとめ が振袖を著て、 青馬あお に乗 って、峠を越すと、いきなり、ささだ男と、ささべ男が飛び出して両方から引っ張る。余は竿をかついで、おおいおおいと呼ぶ。昔し 宋そう の 大慧禪 師だいえぜんじ と云う人は、悟道の 後のち 、何事も意のごとくに出來ん事はないが、ただ夢の中では俗念が出て困ると、長い間これを苦にされたそうだが、なるほどもっともだ。 気のせいか、誰か小聲で歌をうたってるような気がする。不思議な事に、その調(diào)子はとにかく、文句をきくと ―― 枕元でやってるのでないから、文句のわかりようはない。突然とやむものには、突然の感はあるが、 憐あわ れはうすい。 今までは 床とこ の中に我慢して聞いていたが、聞く聲の遠ざかるに連れて、わが耳は、釣り出さるると知りつつも、その聲を追いかけたくなる。 寢巻ねまき の上にも木の影が揺れながら落ちた。あれかと思う意識さえ、 確しか とは心にうつらぬ間に、黒いものは花の影を踏み 砕くだ いて右へ切れた。 括くく り 枕まくら のしたから、 袂時計たもとどけい を出して見ると、一時十分過ぎである。あるいは 此家ここ の御嬢さんかも知れない。今まで懐中時計の音の気になった事はないが、今夜に限って、さあ考えろ、さあ考えろと催促するごとく、寢るな寢るなと忠告するごとく口をきく。失戀が蕓術の題目となるのも全くその通りである。しかし自から不幸の輪廓を 描えが いて 好この んでその 中うち に 起臥きが するのは、自から 烏有うゆう の山水を 刻畫こくが して 壺中こちゅう の 天地てんち に歓喜すると、その蕓術的の 立腳地りっきゃくち を得たる點において全く等しいと云わねばならぬ。これはあえて 自みずか ら 欺あざむ くの、人を 偽いつ わるのと云う了見りょうけん ではない。俗にこれを 名なづ けて 美化びか と云う。 余が今見た影法師も、ただそれきりの現(xiàn)象とすれば、 誰だ れが見ても、 誰だれ に聞かしても 饒ゆたか に詩趣を帯び ている。こんな事なら、非人情も 標榜ひょうぼう する価値がない。 こんな時に どうすれば詩的な 立腳地りっきゃくち に帰れるかと云えば、おのれの感じ、そのものを、おのが前に 據(jù)す えつけて、その感じから一歩 退しりぞ いて 有體ありていに落ちついて、他人らしくこれを検査する余地さえ作ればいいのである。十七字が容易に出來ると云う意味は 安直あんちょく に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の 悟さと りであるから軽便だと云って侮蔑ぶべつ する必要はない。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。するや 否いな やうれしくなる。出來たら書きつけないと散漫さんまん になっていかぬと、念入りの修業(yè)だから、例の寫生帖をあけて枕元へ置く。それから「 正一位しやういちゐ 、女に化ば けて 朧月おぼろづき 」と作ったが、狂句めいて、自分ながらおかしくなった。熟睡のうちには 何人なんびと も我を認め得ぬ。 起臥きが の二界を 同瓶裏どうへいり に盛りて、 詩歌しいか の 彩管さいかん をもって、ひたすらに 攪か き 雑ま ぜたるがごとき狀態(tài)を云うのである。抜け 出い でんとして 逡巡ためら い、逡巡いては抜け出でんとし、 果は ては魂と云う個體を、もぎどうに 保たも ちかねて、 氤いんうん たる 瞑氛めいふん が散るともなしに四肢五體に 纏綿てんめん して、 依々いい たり 戀々れんれん たる心持ちである?？证欷猡护?。まぼろしはそろりそろりと部屋のなかに 這入はい る。 まぼろしは 戸棚とだな の前でとまる。畳の波がおのずから幻影を渡し返す。 いつまで人と馬の 相中あいなか に寢ていたかわれは知らぬ。神秘は 十萬億土じゅうまんおくど へ帰って、 三途さんず の 川かわ の 向側むこうがわ へ渡ったのだろう。晝と夜を 界さかい にこう天地が、でんぐり返るのは妙だ。人のいるさえ予期しておらぬ 出合頭であいがしら の 挨拶あいさつ だから、さそくの返事も出る 遑いとま さえ ないうちに、 「さ、 御召おめ しなさい」 と 後うし ろへ廻って、ふわりと余の 背中せなか へ柔かい著物をかけた。この 辟易へきえき すべき多量の形容詞中から、余と三歩の 隔へだた りに立つ、 體たい を 斜なな めに 捩ねじ って、後目しりめ に余が 驚愕きょうがく と 狼狽ろうばい を 心地ここち よげに 眺なが めている女 を、もっとも適當に 敘じょ すべき用語を拾い來ったなら、どれほどの數(shù)になるか知れない。動けばどう変化するか、 風雲(yún)ふううん か 雷霆らいてい か、見わけのつかぬところに 余韻よいん が 縹緲ひょうびょう と存するから 含蓄がんちく の 趣おもむき を 百世ひゃくせい の後のち に伝うるのであろう。一も二も三も必ず特殊の能力には相違なかろうが、すでに一となり、二となり、三となった 暁あかつき には、の 陋ろう を 遺憾いかん なく示して、本來円満ほんらいえんまん の 相そう に戻る訳には行かぬ。これがわれら 畫工がこう の運命を支配する大問題である。眼は 五分ごぶ のすきさえ見出すべく動いている。 畫え にしたら美しかろう。人を馬鹿にした様子の底に 慎つつし み深い 分別ふんべつ がほのめいている。この女の顔に統(tǒng)一の感じのないのは、心に統(tǒng)一のない証拠で、心に統(tǒng)一がないのは、この女の世界に統(tǒng)一がなかったのだろう。 「ほほほほ御部屋は 掃除そうじ がしてあります。白い 襟えり がたぼの下から見える。下には小さな 用簞笥ようだんす が見える。一番上に 白隠和尚はくいんおしょう の 遠良天釜おらてがま と、 伊勢物語いせものがたり の一巻が並んでる。 「 海棠かいだう の露をふるふや 物狂ものぐるひ 」の下にだれだか「海棠の露をふるふや朝烏あさが らす 」とかいたものがある?！?正一位しやういちゐ 女に化けて 朧月おぼろづき 」の下には「 御曹子おんざうし女に化けて朧月」とある。ときに何時だなと時計を見ると、もう十一時過ぎである。海棠かいどう と鑑定したのははたして、海棠であるが、思ったよりも庭は狹い。右手は 屋や の 棟むね で 遮さえぎられて、見えぬけれど も、地勢から察すると、だらだら 下お りに風呂場の方へ落ちているに相違ない。 椽えん から足をぶらさげれば、すぐと 踵かかと は 苔こけ に著く。 二株三株ふたかぶ。 今度は左り側の窓をあける。これが 那古井なこい の地勢である。左は山つづきの 崖がけ に赤松が 斜なな めに巖の間から庭の上へさし出している。これでは 午飯ひるめし だけで間に合せる方が胃のためによかろう。 後のち ほどと云ったから、今に 飯めし の時にでも出て來るかも知れない。おやとまた 吃驚びっくり する。 何気なにげ なく 座布団ざぶとん の上へ坐ると、 唐木からき の機の上に例の寫生帖が、鉛筆を挾はさ んだまま、大事そうにあけてある。扱帯の上部はなまめかしい衣裳いしょう の間にかくれて先は見えない。 四 ぽかんと部屋へ帰ると、なるほど 奇麗きれい に掃除がしてある。いずれ 後のち ほど」 と云うや 否いな や、ひらりと、腰をひねって、廊下を 軽気かろげ に 馳か けて行った。 不仕合ふしあわせ な女に違ない。どうしても表情に一致がない。 元來は 靜せい であるべき 大地だいち の一角に 陥欠かんけつ が起って、全體が思わず動いたが、動くは本來の性に 背そむ くと悟って、 力つと めて 往昔むかし の姿にもどろうとしたのを、 平衡へいこう を失った機勢に制せられて、心ならずも動きつづけた今日こんにち は、やけだから無理でも動いて見せると云わぬばかりの有様が ―― そんな有様がもしあるとすればちょうどこの女を形容する事が出來る。のみならず 眉まゆ は両方から 逼せま って、中間に數(shù)滴の 薄荷はっか を點じたるごとく、ぴくぴく 焦慮じれ ている。 ところがこの女の表情を見ると、余はいずれとも判斷に迷った。 運慶うんけい の 仁王におう も、 北斎ほくさい の 漫畫まんが も全くこの動の一字で失敗している。動けばあらわれる。美術家の評によると、 希臘ギリシャ の彫刻の理想は、 端粛たんしゅく の二字に 帰き するそうである。 昔から小説家は必ず主人公の 容貌ようぼう を極力描寫することに相場がきまってる。 「御早う。洗う気にも、出る気にもならない。見れば夜の幕はとくに切り落されて、天下は 隅すみ から隅ま で明るい。余が眠りはしだいに 濃こま やかになる。白 い腕が 袖そで をすべって暗闇くらやみ のなかにほのめいた。閉ずる 眼まなこ のなかから見る世の中だから 確しか とは解らぬが、色の白い、髪の濃い、 襟足えりあし の長い女である。眺めると云うてはちと言葉が強過ぎる。あいた所へまぼろしのごとく女の影がふうと現(xiàn)われた。睡魔の 妖腕ようわん をかりて、ありとある実相の角度を 滑なめら かにすると共に、かく 和やわ らげられたる 乾坤けんこん に、われからと 微かす かに 鈍にぶ き脈を通わせる。ただ両域の間に 縷る のごとき幻境が 橫よこた わる。 春の星を落して 夜半よは のかざしかな 春の夜の雲(yún)に濡らすや洗ひ髪 春や 今宵こよひ 歌つかまつる御姿 海棠かいだう の精が出てくる月夜かな うた折々月下の春ををちこちす 思ひ切つて更け行く春の獨りかな などと、試みているうち、いつしか、うとうと眠くなる。次に「花の影、女の影の 朧おぼろ かな」とやったが、これは季が 重かさ なっている。 これが 平生へいぜい から余の主張である。ちょっと涙をこぼす。まあちょっと腹が立つと仮定する。その方便は色々あるが一番 手近てぢか なのは 何なん でも 蚊か でも手當り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。昔し 27 以太利亜?タリ? の畫家サルヴ?トル ? ロザは泥棒が研究して見たい一心から、おのれの危険を 賭かけ にして、山賊の 群むれ に 這入はい り込んだと聞いた事がある。この好題目が 眼前がんぜん にありながら、余は 入い らざる 詮義立せんぎだ てをして、余計な 探さ ぐりを投げ込んでいる。燦爛さんらん たる 彩光さいこう は、 炳乎へいこ として昔から現(xiàn)象世界に実在している。して見ると四角な世界から常識と名のつく、 一角いっかく を 磨滅まめつ して、三角のうちに住むのを蕓術家と呼んでもよかろう。われわれは 草鞋旅行わらじたび をする 間あいだ 、朝から晩まで苦しい、苦しいと不平を鳴らしつづけているが、人 26 に向って 曾遊そうゆう を説く時分には、不平らしい様子は少しも見せぬ。世には有りもせぬ失戀を製造して、 自みず から 強し いて 煩悶はんもん して、愉快を 貪むさ ぼるものがある。 怖こわ いものもただ怖いものそのままの姿と見れば詩になる。何にしてもなかなか寢られない。よもや 化物ばけもの ではあるまい。 25 借著かりぎ の 浴衣ゆかた 一枚で、障子へつらまったまま、しばらく 茫然ぼうぜん としていたが、やがて我に帰ると、山里の春はなかなか寒いものと悟った。あの聲はと、耳の走る見當を見破ると ―― 向うにいた。もうどう 焦慮あせっ ても 鼓膜こまく に 応こた えはあ るまいと思う 一剎那いっせつな の前、余はたまらなくなって、われ知らず 布団ふとん をすり抜けると共にさらりと 障子しょうじ を 開あ けた。これと 云う句切りもなく 自然じねん に 細ほそ りて、いつの間にか消えるべき現(xiàn)象には、われもまた 秒びょう を縮め、 分ふん を 割さ いて、心細さの細さが細る。あきづけば、をばなが上に、おく露の、けぬべくもわは、おもほゆるかもと 長良ながら の 乙女おとめ の歌を、繰り返し繰り返すように思われる。たしかに誰かうたっている。こんな夢では大部分畫にも詩にもならんと思いながら、寢返りを打つと、いつの間にか 障子しょうじ に月がさして、木の枝が二三本 斜なな めに影をひたしている。 腋わき の下から汗が出ている。救ってやろうと思って、長い 竿さお を持って、 向島むこうじま を 追懸おっか けて行く。 すやすやと寢入る。これは商売 柄しょうばいがら だけに、部屋に 這入はい った時、すでに 逸品いっぴん と認めた