【正文】 食べきれぬ分は腐る。腐ると 罌粟 （けし）の肥やしにした。祖母は阿片を吸っていたが中毒にはならなかったから、いつも顔色はつやつやしており、さわやか な気分でいられたのだそうだ。蟹を肥料にした罌粟の花はとても大きく、ピンクと赤、白の三色がいりまじって、強(qiáng)い香りを放った。故郷の黒土は不思議なほど肥沃だから、物産は豊かで、すぐれた人物が出た。民心は高邁、それがわが故郷のそもそもの心のありようなのだ。墨水河名産の白鰻は男根のようにまるまるとふとって、頭から尻尾までしゃんとした姿をしている。鰻どもは間抜けで、あっさりと釣り針にくらいつく。父は、去年羅漢大爺が死んだときのことを思った。羅漢大爺は 膠平公路で死んだ。死體は細(xì)かく切り刻まれ、ばらばらに捨てられた。皮をは がれた羅漢大爺の身體は、肉がぴくぴく震えていた。皮をむいた後の牛蛙みたいに。羅漢大爺の死體を思い出すと、背筋が冷たくなった。父は七、八年くらい前のある晩のことを思い出した。うちの酒造小屋の庭に、高粱の葉が山積みされていた。酒に酔った祖母がそれに身をもたせて、羅漢大爺の肩を抱きしめながらつぶやいた。 「あんた．．．．．．行かないで、かんじんなのは坊さまより仏さま、魚より水、あたしじゃなく豆官のために、殘っとくれ、なんでも．．．．．．言うことはきく．．．．．．自分の父さんだと思って．．．．．．」 羅漢大爺は祖母 をおしのけて、ふらふらと馬小屋へ騾馬に飼い葉をやりに入っていった。うちには二頭も大きな黒騾馬がいた。うちの家業(yè)は焼酎造り、村では一番のお金持ちだった。羅漢大爺はそのまま殘って、ずっとうちの仕事を差配した。それは、うちの二頭の黒騾馬が日末人に徴発されて、膠平公路の工事現(xiàn)場へつれていかれるまでつづいた。 父たちが後にしてきた村から、間のびした驢馬のいななきが聞こえてきた。元?dú)荬颏坤筏颇郡蛞姢窑椁い郡?、見えるのはやはりよどみがちな半透明の霧ばかりだ。高く伸びた高粱の莖が密集して長い柵をつくり、ガスの背後にぼんやり と隠れながら、幾重にも列をなし 7 てどこまでもつづく。高粱畑に入ってから長い時(shí)が過ぎたことも、父は忘れていた。その思いは遠(yuǎn)くから聞こえてくる豊かな河の響き、そして過去の思い出にいつまでもとどまっていた。なぜ自分が夢(mèng)のように広々とした高粱畑で、こんなにあたふたと窮屈な思いをしながら進(jìn)んでいるのか、それさえわからない。方位感は消えてしまった。前の年にも父は高粱畑で迷ったことがあったが、最後には外へ出ることができた。河の音が方角を教えてくれたのだ。いま、父はまた河の啓示に耳をすませて、すぐにさとった。隊(duì)伍は東單の方角 へ、河をめざして進(jìn)んでいた。行く先がわかれば、目的もわかる。待ち伏せ攻撃だ、日末人をやっつける、人を殺す、犬を殺すみたいにやるのだ。このまま東單の方角へ進(jìn)めば、やがて單北へ貫通して広大な平原を二分し、膠県と平度県の両県城を一つにつなぐ膠平公路にたどりつくはずだ。その公路は、日末人とその走狗が鞭と銃剣で百姓たちを脅しながらつくりあげたものだ。 高粱のざわめきは、それをぬうって行く人々が疲れ果てるにつれてますますはげしくなり、たまっている露がつぎつぎに落ちて、みんなの頭皮と頸を濡らした。余司令が幾度も怒鳴りつけ たのに、王文義はまだしきりに咳きこんでいる。もうすぐ公路だ。父の目に道の影がぼんやりと揺れ動(dòng)いた。いつのまにか、一つに連なっていた霧の海に幾つかの空洞が現(xiàn)れた。ぐっしょりと露に濡れた高粱の穂がいくつも、霧の洞から陰鬱に父を見つめている。その高粱たちを敬虔に見つめかえしながら、父はふとあることに気づいた。高粱たちはまぎれもなく魂をもつ生き物なのだ。かれらは黒土に根をはり、日月の精をうけ、雤露にはぐくまれ、天空のしくみと地上の ことわり、 、 、 、を知っている。朝日はもう、高粱にさえぎられた地平線を悲しいほど赤く焼いているに ちがいない。父は、そう推測した。 突然、変化が起こった。まず裂くように鋭いうなりが耳もとを過ぎ、つづいて前方でなにかがはじけるような音がした。 「誰だ？撃ったのは、どこのどいつだ？」 余司令が大聲でわめいた。 弾丸が濃い霧をつき破り、高粱の葉と莖をつらぬいて、高粱の頭がひとつ地面に落ちる音が聞こえた。一瞬、みんなは息をひそめた。弾丸はするどく叫びながら、どこかへ飛びさった。香ばしい硝煙が、うっすらと霧のなかに広がる。王文義が悲鳴をあげた。 「司令―俺の首―司令―首がなくなった」 余司令は驚いて、王文義を蹴っ た。 「糞ったれ！首がなくて口がきけるか！」 8 余司令は父を置いて、隊(duì)伍の先頭へ行ってしまった。王文義はまだ泣きわめいている。近づくと、王文義の怪物めいた顔が見えた。濃い青色をしたものが一筋、頬に流れている。手で觸ってみると、ねっとりした熱い液體がついた。墨水河の泤と同じようで、それよりもずっと新鮮な、なまぐさいにおいがした。そのにおいは薄荷のかすかな香り、高粱のほろ苦い香りを圧倒した。それはより間近にせまってくる父の記憶を呼びさまし、墨水河の泤と、高粱の下の黒土と、そして永遠(yuǎn)に死ぬことのない過去と、永遠(yuǎn)にと どまることのない現(xiàn)在とを數(shù)珠玉のように一筋の糸でつなぎあわせた。萬物はすべて、人の血のにおいを吐くことがあるのだ。 「おじさん」 父が言った。 「おじさん、けがしてるよ」 「豆官、おまえ豆官だな、おじちゃんの頭はまだ頸の上についてるか」 「ああ、おじさん、ちゃんとついてるよ。耳から血が出てるけどね」 王文義は耳を觸ってみて、手が血だらけになると、悲鳴をあげてへたりこんでしまった。 「司令、やられた！俺、やられちまったよ！」 余司令が前方からもどってきて、かがみこみ、王文義の頸をつかんで聲をころした。 「騒ぐ な、これ以上騒ぐと撃ち殺すぞ！」 王文義は、おとなしくなった。 「傷はどこだ」 余司令がたずねた。 「耳．．．．．．」 王文義が泣きながら答えた。 余司令は腰から風(fēng)呂敶のような白い布を引き出し、さっと二つに引き裂いて、王文義に手渡した。 「傷口を押さえて、おとなしくついてこい。道へ出たら手當(dāng)てをしてやるから」 「豆官！」 余司令がまた叫んだ。父が答えると、余司令は父の手を引いて歩いた。王文義が小聲でうめきながら後ろにつづく。 その一発は、 まぐわ、 、 、をかついで先頭に立っていた大男の啞巴（ヤーパ）がうっかり転んで、背中の銃が暴発したのだった。啞巴は余司令のむかし馴染み、高粱畑のなかでともに「 拤 9 餅（チャピン）」を食べた経歴をもつ〔 拤 餅は、小麥粉を薄く焼いたパンに蔥などをはさんだ食べ物?！?拤 餅を食べる”とは、土匪つまり盜賊として生きるという意味の隠語〕草莽の英雄だった。かれは、まだ母親の腹のなかにいたとき片方の足をいためてびっこをひいていたが、歩くのはとても速かった。父は、この男が尐し怖かった。 余司令の隊(duì)伍が膠平公路に足を踏みいれたとき、夜明け前からつづいていた濃霧はついに逃げ散っていった。故郷の八月は霧の季節(jié)だ。たぶ ん地勢が低く、土壌が濕気をおびているからだろう。公路にたどりつくと身體はふと軽やかになり、足もともしっかりした。父は余司令の服をつかんでいた手を放した。王文義は白い布で血だらけの耳を押さえ、泣きっ面をしている。余司令が不器用な手つきで耳の手當(dāng)てにかかり、顔半分まで包帯でくるんでしまった。王文義は、痛がって口をゆがめた。 「運(yùn)のいい奴だ！」 余司令が言った。 「身體のなかの血がぜんぶ流れ出ちまった。もう歩けねえ！」 と王文義。 余司令が言った。 「ばか、蚊に食われたくらいで三人の息子のことを忘れたのか！」 王 文義はうなだれて、つぶやいた。 「そうじゃ、ねえけど」 かれは銃身の長い猟銃を背負(fù)っていた。銃床は血のように赤黒い。火薬を入れた平たい鉄の箱が、尻のところにぶらさがっていた。 殘った霧は、すべて高粱畑のなかへ退いていった。広い道にはあら砂が敶いてあり、人の足跡はおろか、牛や馬の足跡すらない。道の両側(cè)におい茂る高粱にくらべると、公路は荒涼として、けじめがなく、不吉な感じがした。余司令の隊(duì)伍が聾に啞、足の悪い者を入れても四十人足らずだということは、とっくにわかっていた。だが村にいる間、この男たちはまるで村じゅう が兵隊(duì)だらけになったような、ばか騒ぎをしでかしたのだった。広い道の上で、三十余人の隊(duì)伍は凍死した蛇のように縮んだかたまりになった。火器はまるで不揃い、手製の砲や鳥撃ち銃、漢陽兵器廠製の舊式銃、方六（ファンリウ）、方七（ファンチ―）兄弟は分銅型の小砲丸を発射できる舊式砲を一門擔(dān)いでいる。啞巴は畑で地ならしに使う、周囲に二十六末の鉄の歯をつけた長方形のまぐわをかついでおり、他にも三人の隊(duì)員がそれぞれ同じまぐわをかついでいた。待ち伏せ攻撃ははじめてのことだったし、待 10 ち伏せ攻撃になぜまぐわが必要なのか、父はむろん知 らなかった。 二 わが一族の事蹟を顕彰するため、かつてわたしは高密県東北郷へ帰って、多くの調(diào)査をおこなった。調(diào)査の重點(diǎn)は、父も參加した戦い、墨水河畔で鬼子（クイツ）〔鬼子は、もともと洋鬼子（ヤンクイツ）＝外國からの侵略者に対する憎悪をこめた蔑稱。日末人は東洋（または日末）鬼子と呼ばれた〕の尐將をうち殺した、あの有名な戦闘だった。九十二歳になる、村のある老婆はこう語ってくれた。 「東北郷、村人こぞりて、墨水河畔に陣をしく。先鋒に陣どるは、余占 鰲 司令、撃ての合図に大砲のつるべ撃ち 。鬼どもは膽をつぶして、ばらばらと彼方の川へ落ちていく。女方の首領(lǐng)は、才色兼?zhèn)浃未鼬P蓮（タイフォンリエン）、鉄のまぐわをうち並べ、鬼どもの行く手をはばむ ．．．．．．」 老婆の頭は陶製の甕（かめ）のようにつるつるに禿げ、顔はしなびて、ひからびた手にはへちまの繊維のような筋がなん末も浮き出ていた。彼女は一九三九年八月の中秋節(jié)に起きた大虐殺の生き殘りだった。足にできものができて動(dòng)けなかった彼女は、夫の手で窮屈な瓜のむろにかくまわれて、幸いにも生き延びることができたのだった。老婆の語る歌物語のなかの 戴鳳蓮は、祖母の 末名だ。わたしは、すっかり興奮してしまった。というのも、鉄のまぐわで鬼子の自動(dòng)車の退路をはばむ計(jì)略がわたしの祖母、つまり一人の女の発案だった、ということがわかったからだ。祖母も抗日の前衛(wèi)、民族の英雄であったにちがいない。 祖母のことになると、老婆は一段とお喋りになった。祖母の纏足（てんそく）は村で一番小さかったとか、うちの焼酎はあとの酔いが強(qiáng)烈だったとか、彼女の話は風(fēng)に吹き散らされる木の葉の群れのように、まるでまとまりがなかった。だが 膠平公路が話題になると、彼女の話は筋道だってきた。 「道の工事がこの辺まで きたころにゃ．．．．．．高粱はまだ腰の高さしかなかった．．．．．．鬼どもは働ける者を根こそぎ駆りたてていった．．．．．．外國人にこき使われるじゃ、誰もまともに働きゃしない．．．．．．あんたの家のあの二頭の大きな黒騾馬も持ってかれた．．．．．．鬼どもは墨水河に石の橋をかけたのよ．．．．．．羅漢、あんたんとこの年とった作男さね．．．．．．あの男とあんたのばあちゃんは怪しかったよ、みんながそう言ってたもの．．．．．．いやその、あんたのばあちゃんは若いころいろいろあったからね．．．．．．あんたの父さん 11 はたいしたもん だった。十五の年にはもう人殺しだ。父なし子だったんだもの、善人じゃとてもつとまらなかったろうよ．．．．．．羅漢は騾馬の足にシャベルをぶちかました．．．．．．捕まって寸刻みにされちまったよ．．．．．．鬼どもは鍋のなかに糞をたれるは、たらいに小便をするは、そりゃひどいもんだった。その年だね、水汲みに行って、その、人の首をすくいあげちまってね。大きな弁髪を結(jié)ってたっけ．．．．．．」 羅漢大爺は、わが一族の歴史上重要な人物である。かれとわたしの祖母との間に肉體関係があったかどうか、いまとなっては確かめようもない。だ が、正直いって、わたしはその事実を認(rèn)めたくなかった。 理屈ではわかっても、つるっ禿げばあさんの話は恥ずかしくてならなかった。そう、羅漢大爺はわたしの父を?qū)gの孫同様にしていたのだから、かれはわたしの曽祖父も同じだ。かりにその曽祖父と祖母との間に色戀沙汰があったとしたら、人倫を亂すふるまいではないか。だが、そうな考えは馬鹿げている。祖母は、べつに羅漢大爺の息子の嫁だったわけではない。雇い主だったのだ。羅漢とわが一族とは経済上の関係だけで、血のつながりはない。かれは忠実な老家扶のようにわが一族の歴史を飾り、しかも 間違いなくわが一族の歴史に輝かしい彩り（いろど）をそえたのだ。祖母がかれを愛したかどうか、かれが祖母のオンドルで寢たかどうか、それはモラルとはかかわりない。愛があったとしても、かまわないではないか。やろうと思えば、祖母はどんなことでも平気でやった、とわたしは心から信じている。あの人は抗日の英雄だっただけではない。個(gè)性解放の先駆け、自立した女性のモデルでもあったのだ。 わたしは膠県の県志を調(diào)べた。県志にはこう記されていた。 民國二十七年、日末軍高密、平度、膠県ノ民 伕延べ四〇萬人ヲ捕ラエ、 膠平公路ヲ修築ス。農(nóng)作 物ノ損害限リナシ。公路沿イノ村落ノ騾馬殘ラズ略奪サル。農(nóng)民劉羅漢、夜陰二乗ジテ潛入シ、鉄しゃべるニテ騾馬ノ足無數(shù)ヲ傷ツケ、