【正文】 で、僕も口をはさまずにそのとなりを黙って歩いた。 「どんな風(fēng)に正しくないんだろう？」と僕は靜かな聲で訊ねてみた。ねえ、もしよ、もし私があなたと結(jié)婚したとするわよ ね。するとあなたが會社に行ってるあいだいったい誰が私を守ってくれるの？あなたが出張に行っているあいだいったい誰が私を守ってくれるの？私は死ぬまであなたにくっついてまわってるの？ ねえ、そんなの対等じゃないじゃない。俺の人生っていったい何だったんだ？この女のおもりをするだけのことなのかって。それでは私の抱えている問題は解決したことにはならないのよ」 「これが一生つづくわけじゃないん だ」と僕は彼女の背中に手をあてて、言った。終ったところで僕らはもう一度考えなおせばいい。そのときはあるいは君の方が僕を助けてくれるかもしれない。もし君が僕を今必要としているなら僕を使えばいいんだ。肩にカが入ってるから、そんな風(fēng)に構(gòu)えて物事を見ちゃうんだ。 彼女の聲を聞いて、僕は自分が何か間違ったことを口にしたらしいなと思った?！讣绀违驋i挪威的森林 2020425 8 けば體が軽くなることくらい私にもわかっているわよ。ねえ、いい？もし私が今肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。一度力を抜いたらもうもとには戻れないのよ。どうしてそれがわからないの？それがわからないで、どうして私の面倒をみるなんて言うことができるの？」 僕は黙っていた。暗くて、冷たくて、混亂していて……ねえ、どうしてあなたあのとき私と寢たりしたのよ？どうして私を放っておいてくれなかったのよ？」 我々はひどくしんとした松林の中を歩いていた。 僕と直子はまるで探しものでもしているみたいに、地面を見ながらゆっくりとその松林の中の道を歩いた。そして何度か首を振った。私の言ったこと気にしないでね。私はただ自分に腹を立てていただけなの」 「たぶん僕は君のことをまだ本當(dāng)には理解してないんだと思う」と僕は言った。でももし時間さえあれば僕は君のことをきちんと理解するし、そうな れば僕は世界中の誰よりもきちんと理解できると思う」 僕らはそこで立ちどまって靜けさの中で耳を澄ませ、僕は靴の先で蟬の死骸や松ぼっくりを転がしたり、松の枝のあいだから見える空を見あげたりしていた。 挪威的森林 2020425 9 「ねえワタナベ君、私のこと好き？」 「もちろん」と僕は答えた?！袱栅郡膜扦いい韦琛￥窑趣膜悉?、あなたがこ うして會いに來てくれたことに対して私はすごく感謝してるんだということをわかってはしいの。もしたとえそう見えなかったとしても、そうなのよ」 「また會いにくるよ」と僕は言った。私が存在し、こうしてあなたのとなりにいたことをずっと覚えていてくれる？」 「もちろんずっと覚えているよ」と僕は答えた。梢を抜けてくる秋の光が彼女の上著の肩の上でちらちらと踴って いた。直子は小さな丘のように盛りあがったところを上り、松林の外に出て、なだらかな坂を足速に下った。 「こっちにおいでよ。 直子は立ちどまってにっこりと笑い、僕の腕をそっとつかんだ。 「本當(dāng)にいつまでも私のことを忘れないでいてくれる？」と彼女は小さな囁くような聲で訊ねた。「君のことを忘れられるわけがないよ」 挪威的森林 2020425 10 それでも記憶は確実に遠(yuǎn)ざかっていくし、僕はあまりに多くのことを既に忘れてしまった。ひょっとして自分はいちばん肝心な部分の記憶を失ってしまっているんじゃないかとふと思うからだ。 しかし何はともあれ 、今のところはそれが僕の手に入れられるものの全てなのだ。直子との約束を守るためにはこうする以外に何の方法もないのだ。でもそのときは一行たりとも書くことができなかった。全てがあまりにもくっきりとしすぎていて、どこから手をつければいいのかがわからなかったのだ。でも今はわかる。そして直子に関する記憶が僕の中で薄らいでいけばいくほど、僕はより深く彼女を理解することができるようになったと思う。もちろん直子は知っていたのだ。だからこそ彼女は僕に向って訴えかけねばならなかったのだ。私が存在していたことを覚えていて」と。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。僕は十八で、大學(xué)に入ったばかりだ った。そこなら食事もついているし、いろんな設(shè)備も揃っているし、世間知らずの十八の少年でもなんとか生きていけるだろうということだった。寮の費用は一人暮しのそれに比べて格段に安かった。僕としてはできることならアパートを借りて一人で気楽に暮したかったのだが、私立大學(xué)の入學(xué)金や授業(yè)料や月々の生活費 のことを考えるとわがままは言えなかった。 その寮は都內(nèi)の見晴しの良い高臺にあった。門をくぐると正面には巨大なけやきの木がそびえ立っている。根もとに立って上を見あげると空はその緑の葉にすっぽりと覆い隠されてしまう。中庭の両側(cè)には鉄筋 コンクリート三階建ての棟がふたつ、平行に並んでいる。しかし決して不潔ではないし、暗い印象もない。窓のカーテンはどの部屋も同じクリーム色、日焼けがいちばん目立たない色だ。一階には食堂と大きな浴場、二階には講堂といくつかの集會室、それから何に使うのかは知らないけれど貴賓室まである。これも三階建てだ。本部建物の裏手には野球とサッカーの兼用グラウンドとテニス？コートが六面ある。 この寮の唯一の問題點はその根本的なうさん臭さにあった。入寮案內(nèi)のパンフレットと寮生規(guī)則を読めばそのだ いたいのところはわかる。正確なところは誰にもわからない。いや、もっともっと深い読みがあるんだと言うものもいる。たしかに寮には寮生の中のトップ？エリートをあつめた特権的なクラブのようなものがあって、僕もくわしいことはよく知らないけれど、月に何度かその設(shè)立者をまじえて研究會のようなものを開いており、そのクラブに入っている限り就職の心配はないということであった。 いずれにせよ一九六八年の春から七〇年の春までの二 年間を僕はこのうさん臭い寮で過した。日常生活というレベルから見れば右翼だろうが左翼だろうが、偽善だろうが偽悪だろうが、それほどたいした違いはないのだ。もちろん國歌も流れるし スポーツ？ニュースからマーチが切り離せないように、國旗掲揚から國歌は切り離せない。 國旗を掲揚するのは東棟（僕の入っている寮だ）の寮長の 役目だった。いかにも硬そうな髪にいくらか白髪がまじり、日焼けした首挪威的森林 2020425 13 筋に長い傷あとがある。そのとなりにはこの國旗掲揚を手伝う助手の如き立場の學(xué)生が控えている。丸刈りで、いつも學(xué)生服を著ている。食堂でも風(fēng)呂でも一度も顔をあわせたことがない。まあしかし學(xué)生服を著ているからには やはり學(xué)生なのだろう。そして中野學(xué)校氏とは逆に背が低く、小太りで色が白い。 僕は寮に入った當(dāng)初、もの珍しさからわざわざ六時に起きてよくこの愛國的儀式を見物したものである。學(xué)生服はもちろん、學(xué)生服に黒の皮靴、中野學(xué)校はジャンパーに白の運動靴という格好である。中野學(xué)校はソニーのポータブル？テープレコーダーを下げ ている。學(xué)生服が桐の箱をあける。學(xué)生服が中野學(xué)校にうやうやしく旗を差し出す。學(xué)生服がテープレコーダーのスイッチを押す。 そして旗がするするとポールを上っていく。そして二人は背筋をしゃんとのばして（気をつけ）の姿勢をとり、國旗をまっすぐに見あげる。 夕方の國旗降下も儀式としてはだいたい同じような様式でとりおこなわれる。旗はするすると降り、桐の箱の中に収まる。 挪威的森林 2020425 14 どうして夜のあいだ國旗が降ろされてしまうのか、僕にはその理由がわからなかった。線路工夫やタクシーの運転手やバーのホステスや夜勤の消防士やビルの夜警や、そんな夜に働く人々が國家の庇護(hù)を受けることが できないというのは、どうも不公平であるような気がした。誰もたぶんそんなことは気にもとめないのだろう。それに僕にしたところで何かの折りにふとそう思っただけで、それを深く追求してみようなんていう気はさらさらなかったのだ。二人部屋は六畳間をもう少し細(xì)長くしたくらいの広さで、つきあたりの壁にアルミ樅の窓がついていて、窓の 前に背中あわせに勉強(qiáng)できるように機(jī)と椅子がセットされている。家具はどれも極端なくらい簡潔でがっしりとしたものだった。どう好意的に見ても詩的な空間とは言えなかった。しっくいの壁には「平 凡パンチ」のビンナップか、どこかからはがしてきたポルノ映畫のポスターが貼ってある。機(jī)の上の本立てには教科書や辭書や小説なんかが並んでいた。ごみ箱の底にはかびのはえたみかんの皮がへばりついているし、灰皿がわりの空缶には吸殻が十センチもつもっていて、それがくすぶるとコーヒーかビールかそんなものをかけて消すものだか ら、むっとするすえた匂いを放っている。ほうきで掃いて集めてちりとりを使ってごみ箱に捨てるということを誰も思いつかないのだ。そしてどの部屋にもひどい匂いが漂っている。汗と體臭とごみだ。そんなカオスの中からよく致命的な伝染病が発生しなかったものだと今でも僕は不思議に思っている。床にはちりひとつなく、窓ガラスにはくもりひとつなく、布団は週に一度干され、鉛筆はきちんと鉛筆立てに収まり、カーテンさえ月に一回は洗濯された。僕は他の連中に「あいつカーテ ンまで洗うんだぜ」と言ったが誰もそんなことは信じなかった。カーテンというのは半永久的に窓にぶらさがっているものだと彼らは信じていたのだ。それからみんなは彼のことをナチだとか突撃隊だとか呼ぶようになった。そのかわりアムステルダムの運河の寫真が貼ってあった。僕もとくにヌード寫真を貼りたかったわけでもなかったのでべつに文句は言わなかった。「突撃隊はこれ見ながらマスターベーションするんだよ」と僕は言った。あまりにもあっさりとみんなが信じるのでそのうちに僕も本當(dāng)にそうなのかもしれないと思うようになった。こちらが身のまわりを清潔にしている限り、彼は僕に一切干渉しなかったから、僕としてはかえって楽なくらいだった。僕が忙しくて三日風(fēng)呂に入らないとくんくん匂いをかいでから入った方がいいと忠告してくれたし、そろそ挪威的森林 2020425 16 ろ床屋に行けばとか鼻毛切った方がいいねとかも言ってくれた。 突撃隊はある國立大學(xué)で地理學(xué)を?qū)煿イ筏皮い俊? 「地図が好きなの？」と僕は訊いてみた。それは東京に出てきて僕が最初に感心したことのひとつだった。しかし「地図」という言葉を口にするたびにどもってしまう人間が國土地理院に入りたがっているというのは何かしら奇妙であった。 「き、君は何を?qū)煿イ工毪?？」と彼は訊ねた? 「演劇って芝居やるの？」 「いや、そういうんじゃなくてね。ラシーヌとかイヨネスコとか、ンェークスビアとかね」 シ ェークスビア以外の人の名前は聞いたことないな、と彼は言った。講義要項にそう書いてあっただけだ。 「別に好きじゃないよ」と僕は言った?；靵yするとどもりがひどくなった。 「なんでも良かったんだよ、僕の場合は」と僕は説明した。ただたまたま演劇だったんだ、気が向いたのが。 「わからないな」と彼は本當(dāng)にわからないという顔をして言った。そのためにわざわざと、東京の大學(xué)に入って、し、仕送りをしてもらってるわけだよ。僕は説明をあきらめた。彼が上段で僕が下段だった。頭は丸刈りで背が高く、頬骨がはっていた。靴も鞄もまっ黒だった。洋服を選ぶのが面倒なのでいつもそんな格好をしているだけの話だった。そういうことについて話しだすと、彼はどもったりつっかえたりしながら一時間 でも二時間でも、こちらが逃げだすか眠ってしまうかするまでしゃべりつづけていた。あのこれみよがしの仰々しい國旗掲揚式もまるっきり役に立たないというわけではないのだ。顔を洗うのにすごく長い時間がかかる。部屋に戻ってくるとパンパンと音を立ってタオルのしわをきちんとのばしてスチームの上にかけて乾かし、歯ブラシと石鹸を棚に戻す。 挪威的森林 2020425