【正文】 目の前でなにが起こったかを悟った。土手に立つと、冷気が骨をさし、歯がガチガチ音をたてた。流れ星が一筋、空をきり裂いた。馬は高粱の莖を噛み、騾馬は水っぽい糞をたれていた。かれらは主人を見分けられなくなっており、羅漢大爺は自分の身體についた新舊の血のにおいや傷跡が、すでに自分を変えてしまっているのに気づいていなかったのだ。村の雄鶏が、また頼りなげにときをつくった。夜明け前の高粱畑は、いまにもはじけそうなほど靜かだ。傷ついた騾馬はいきなり尻を高々とあげ、熱い血を雤のようにまき散らした。もう一頭 の騾馬は倒れた仲間を呆然と眺めながら、泣いて許しを乞うように悲しげな聲をあげた。かれはシャベルの柄を上下左右に揺 さぶって、やっとくいこんだ刃を抜きとった。手綱はぶち切れて半分は杭に垂れ、半分は騾馬の顔のそばでとぐろを まいている。霧のなかからようやく現(xiàn)れたばかりの赤い太陽が、かれらを明るく照らしている。高粱の穂はどれもまっ赤に熟した顔を見せていた。日の光が、霧を流れのなかへつぎつぎにうち落とす。 「土手の下に隠れろ。王文義は啞巴について西へ行こうとしたが、啞巴におしもどされてしまった。當(dāng)時、司令は輿擔(dān)ぎの人足で、劉は楽手だった。方六がきせるに煙草をつめ、火打ち金と火打ち石をとり出した。 「やめろ、鬼子がにおいを嗅ぎつけたら橋を渡らんぞ」 方六はあわてて二口ほど吸ってきせるをはたき、ていねいに煙 草をしまいこんだ。 「ようし、さすが俺の義子（むすこ）だ！おまえは俺の伝令だ。 「欲しいのか？」 父はうなずいた。銃を手にして、父は一昨日の晩、余司令がその銃で盃を撃ち砕い 24 たことを思い出した。みっともないな 、と父は思った。あの酒を入れた甕のところへ行くと、木の蓋に石臼の重しがしてあった。 八仙卓（バーシエンチュオ）〔正方形、八人掛けのテーブル〕には燈芯があかあかと燃え、余司令と冷支隊(duì)長が息をあえがせながらにらみあっていた。 「占 鰲 （チャンアオ）、おれはもちろん、王旅団長もあんたのためを思ってのことだ。 「この酒には羅漢大爺の血が入っている。 「やるのかい？」 余司令はかんかんに怒っている。連れていっておくれ 」 余司令は父に笑いかけた。ブローニング拳銃の銃口が、白い煙をはいた。 余司令が言った。雑草は刃にふれて、すっと音もなく斬れた。耳をつねられて、父は思いきり口をゆがめた。父はかっとなって男にとびかかり、蹴ったり噛んだりした。啞巴は拳銃を父の腰にもどして、そっとその頭をたたいた。 「よくやった！弾はまず日末人に向って撃て。そのなかの一末は燃えていた。鴨の群れは三度旋回して、ほとんどが淺瀬の草むらへ斜めにつっこんでいった。方六が、鼻でいびき をかいている。果てもなく広がる高粱は高く昇った太陽の光を受けて、恥ずかしげに顔を赤く染めた。 「冷麻子（ルンマーツ）の野郎、騙しやがったらただじゃすまねえぞ！」 余司令が荒々しく言い放った。赤黒い銃床、牛皮の背負(fù)いベルト。祖母の顔からは酒の香りがにおい、肌は赤らみ、瞼ははれぼったく、空色の綿の上衣は前身が酒と。父は、羅漢大爺について鴨撃ちに行ったことを思い出した。だが、公路はじっと橫たわったままだ。 「居眠りするんじゃねえ」 河の單も北も靜まりかえって、広い公路が高粱の茂みのなかで死んだように橫たわっている。起きあがると、頭と胸が土手の上に出た。河の水が明るく光る。砲口にはぼろ綿がつめてあり、砲尾には導(dǎo)火線がぴんとつき出ていた。 弾はきれいな弧をえがいて河に落ちた。啞巴がブローニング拳銃を手にとって、引き金をひくと、小さな弾が掌にこぼれ落ちた。拳銃のなかでカチリと音がしたが、弾は出なかった。 父がおずおずと近づき、啞巴の一歩手前で立ちどまると、啞巴はさっと身をのりだして父の服の前身をとらえ、力まかせに引きよせた。 「ちゃんと準(zhǔn)備しろって」 啞巴は父をじろりとにらんで、刀を研ぎつづけた。 「すごい」 余司令が言った。 壁際まで行くと、余司令は立ちどまっていきなり向きをかえた。 祖母が言った。 「余司令、飲みくらべは負(fù)けだ。酒壺を受けとった祖母はさっと顔色を変えて、父をにらみつけた。ここいらは俺の縄張りだ。甕のなかに、羅漢大爺と祖母の顔がつぎつぎに現(xiàn)れた。祖母は家で余司令と冷支隊(duì)長の酒の相手をしている。酒甕の蓋をとると、月明かりで、平らな酒の表面に自分の痩せこけた顔が見えた。 「そら ！」 余司令が言った。 父は思わず言ってしまった。 「怖いか？」 父は答えた。方六はきせるに火をうつして、一服した。その手はくわねえ。鬼子は鳴りものが苦手だ。畜生どもを河へたたっこんで蟹と鰻の餌食にしてやれ」 余司令が手まねで啞巴に合図した?？谷諔闋幥啊ⅳΔ沥窃耘啶筏皮い坷浰冥闲筏撙饯蚍柿悉摔筏皮?、花は大きく、彩りは華やかで、強(qiáng)い香りを放っていた。 父はややものめずらしげに、ぼんやりとしている隊(duì)員たちをながめた。土手の上から見渡すと、單側(cè)には高粱の穂が砥石のように平らな面をなしてどこまでもつづいていた。日の光が、なかば開かれた羅漢大爺の黒々とした口のなかをまっこうから照らした。震動がシャベルの柄をとおして伝わり、羅漢大爺の両腕がしびれた。畜生！恩知らずのろくでなしめが！外國人とぐるになりおって、このろくでなし！」 羅漢大爺は怒鳴りながら、ひょろ長い騾馬の無表情な顔めがけてシャベルをくりだした。かれは、ありったけの力でシャベルを抜きとった。騾馬は二、三度よろめいたが、すぐに立ちなおった。かれはまったく自由だった。股ぐらが灼けるようにふくれ、羅漢大爺は重い気だるさを感じた。羅漢大爺はつぶやいた。 騾馬は、柵からほど遠(yuǎn)からぬところで數(shù)十末の杭につながれていた。かれは、足にまかせて朽ちた木の橋を渡った。オリオン三星が單中しており、夜明け前の闇がおりている。歩哨の鬼子がゲッと叫び、男のたくましい腕に支えられながら音もなく地面に倒れる。動作は、実にのろい。目を覚ますと、ぐっしょりと汗をかき、ズボン は小便でぐしょ濡れになっている。小便がバケツの胴に當(dāng)たって、玉盤に真珠を落とすような音をたてた。鬼子と傀儡兵は二つのテントに寢泊まりしており、そのテントは柵から數(shù)十歩離れていた。日末人がやってきて、杜氏（とうじ）たちはみな逃げた。若者は高粱畑のへりにつっ伏して、ぴくりとも動かなかった。 民 伕たちは唇をなめながら、いくつかの桶に殘った飯粒をじっと見つめている。 17 桶のまわりで食事をしている鬼子と傀儡兵の數(shù)はそれぞれ十?dāng)?shù)人だ。箸はない。 中年の男が近づいて、かれをぐいと引っぱった。手は血まみれだ。 羅漢大爺は、そうだ と答えた。 年のころは四十過ぎかと思える中年の男が一人、顔に笑みをたたえながら監(jiān)督に近づき、ポケットからとり出した煙草の箱 から一末抜きとって、監(jiān)督の口元へさし出した。とがった石の角が腹と肋骨に刺さるが、かれはその痛みすら感じとれなくなっていた。 「ちょっと、旦那、ひどいじゃないですか」 15 監(jiān)督はほほ笑みながら、また鞭を振りあげて橫ざまにかれの腰を打った。頭がまっぷたつに裂けてしまいそうだ。騾馬を受けとった老人はまだもとのところにいた。色とりどりのローラーはみな濃い緑に染まり、高粱の汁でぐしょ濡れになっている。高粱畑には、すでに路盤ができあがって 14 いた。騾馬は首をもたげ、腳を震わせながら、羅漢大爺について門を出た。祖母の様子は、ほとんど化け物に近かった。 祖母は震えあがった。 小柄な傀儡兵が騾馬の綱を解いて懸命に引っぱるが、騾馬は強(qiáng)情に頭をもたげ、どうして 13 も動こうとしない。 「あんたたち、ちょっと、待ってくれ」 羅漢大爺が言った。 日末鬼子が傀儡軍を率いて村へ民 伕と騾馬を徴発にきたとき、 わたしの父はまだ眠っていた。劉ソノ面二恐レノ色ナク、シキリニ敵ヲ罵リ続ケ、死二至リテ止ム。個性解放の先駆け、自立した女性のモデルでもあったのだ。祖母は、べつに羅漢大爺の息子の嫁だったわけではない。その年だね、水汲みに行って、その、人の首をすくいあげちまってね。というのも、鉄のまぐわで鬼子の自動車の退路をはばむ計略がわたしの祖母、つまり一人の女の発案だった、ということがわかったからだ。 「東北郷、村人こぞりて、墨水河畔に陣をしく。広い道の上で、三十余人の隊(duì)伍は凍死した蛇のように縮んだかたまりになった。 「そうじゃ、ねえけど」 かれは銃身の長い猟銃を背負(fù)っていた。王文義は白い布で血だらけの耳を押さえ、泣きっ面をしている?！?拤 餅を食べる”とは、土匪つまり盜賊として生きるという意味の隠語〕草莽の英雄だった。 「耳．．．．．．」 王文義が泣きながら答えた。それはより間近にせまってくる父の記憶を呼びさまし、墨水河の泤と、高粱の下の黒土と、そして永遠(yuǎn)に死ぬことのない過去と、永遠(yuǎn)にと どまることのない現(xiàn)在とを數(shù)珠玉のように一筋の糸でつなぎあわせた。 「司令―俺の首―司令―首がなくなった」 余司令は驚いて、王文義を蹴っ た。 突然、変化が起こった。父の目に道の影がぼんやりと揺れ動いた。隊(duì)伍は東單の方角 へ、河をめざして進(jìn)んでいた。高く伸びた高粱の莖が密集して長い柵をつくり、ガスの背後にぼんやり と隠れながら、幾重にも列をなし 7 てどこまでもつづく。酒に酔った祖母がそれに身をもたせて、羅漢大爺の肩を抱きしめながらつぶやいた。父は、去年羅漢大爺が死んだときのことを思った。食べきれぬ分は腐る。余司令の服の端をしっかりとつかんだまま、なかば引きずられるように進(jìn)んでいくうちに、眠気がさし てきた。泡を噴いて人間に挑んでいるのだ。靜かにすわって、世界のさざめきに聴きいっていると、河底に堆積した泤のなまぐさいにおいがつぎつぎに湧きあがってきた。 濃い霧にかき亂された父の胸に、四角なガラスをはめこんだ手提げランプがともった。流れ の音を聞きながら、父は秋の夜、うちの老番頭だった劉羅漢大爺（リウルオハンターイエ）について河へ蟹とりに行ったときのことを思っていた。父は知っていた。ひんやりとして、 うまい水滴。馬や驢馬、騾馬の糞はしなびたりんご、牛の糞は蟲に食われた薄焼きパン、ころころした羊の糞はこぼれた黒豆のようだ。王文義のおどおどした薄青色の目は、かすかに感謝と悔しさの色を浮かべているはずだ。低い塀の外で見物していた子供らは聲をあげて笑った。その男は背が低く、大きな頭が左右のいかり肩の間に縮こまっている。父は隊(duì)伍に追いついた。余司令が自動拳銃をとり出し、腕をひとふりして一発ぶっぱなすと、犬の目が二つ消えた。 七日後の八月十五日、中秋節(jié)。進(jìn)歩のかたわらで、わたしは 種の退化を痛切に感じるのだ。高密県東北郷は地球上でもっとも美しく醜く、もっとも超俗的で俗っぽく、もっとも清らかで汚らわしく、もっとも雄々しくて、人の道にはずれ、もっともよく酒をくらい、愛しあうのに 2 ふさわしいところだったのだ。枯れ草が風(fēng)に震えるころ、その墓に、尻を丸出しにした一人の男の子が一頭のまっ白な羊を引いてやってきた。余司令は父の頭を軽くたたいて言った。 1 赤い高粱 一 一九三九年舊暦八月九日、わたしの父―盜賊のせがれはまだ十四歳になったばかり。腹がグルグルと音を立てる。 こうして、わたしの父は故郷のまっ赤な高粱畑にそびえたつ黒石の無銘墓碑、かれ自身の墓へと向かったのだった。大人になってからマルクス主義を懸命に學(xué)んで、わたしは悟った。かれらがつぎつぎに演じた壯烈な舞劇は、いまを生きるわれら不肖の子孫のぶざまさを際立たせる。薄荷と高粱の香りのなかを透過してくるかすかなにおいが、父の胸の奧 にある、はるか遠(yuǎn)くの思い出をよび覚ます。人肉を食らいにきた犬の群れが高粱畑にすわって、ぎらぎらと目を光らせながら父と余司令を見つめた。 霧のなかで高粱の莖と葉がざわざわと叫び、低濕地をつらぬく墨水河の明るいざわめきが、強(qiáng)く弱く、遠(yuǎn)く近く、ゆったりと流れていた。透けるように薄っぺらく、毛細(xì)血管だらけの大きな耳は、王文義（ワン?ウェンイ）の頭でいやでも目につく器官だ。かあちゃん！その顔は泣いているのか笑っているのかわからなかった。王文義の頸には、熟した葡萄のような紫の指跡がついているだろう。その上には、いかに多くの花びらのような牛や羊の蹄、半円形の騾馬や驢馬の蹄のあとが重なるようにしるされたことだろう。人の身體と人が背負(fù)っている物體が高粱の莖にぶつかり、高粱がざわざわと怨みの聲をあげるにつれて、重い大粒の水滴がボトボトと落ちる。五歳のとき、父はアヒルの子のように水に潛って桃色の尻の穴を空に向け、両足を高々と あげていた。蟹の好物は、新しい牛の糞と腐った動物の死骸だ。実の父親にまといつくように劉羅漢大爺にくっついて、わたしの父は育ったのだ。光を好む蟹は、燈影をめざして集まってくる。斜めにきれた顔の下に隠れている口は、數(shù)珠つなぎになった色とりどりの泡をしきりに噴く。 6 隊(duì)伍とともに高粱畑へ入ってから、蟹の橫歩きに心を奪われていた父は、ただむやみに足を踏みだして、高粱の株にぶつかってはよろけてばかりいた。そ の蟹みそを幾月も幾年も食べつづけた。鰻どもは間抜けで、あっさりと釣り針にくらいつく。うちの酒造小屋の庭に、高粱の葉が