【正文】 去年のあの日と同じ。自分たちだけでは無理ではないかというわけで、余司令の隊に協(xié)力をもとめてきたのだ。かれは重いブローニング拳銃をかまえて、平たい野鴨の背をねらう。目に小さな涙の玉がにじんだ。身體はほかほかと暖かい。両手で猟銃をにぎり、震えあがっている。いいな、下っ腹 だぞ」 父は余司令の脇に伏せていた。 「それでどうした？」 父は腕で目をこすった。地べたで一つ転がってから起きあがった父は、わめきながら啞巴にかかっていった。啞巴はけたけたと笑いだした。その顔にたけだけしい笑みが浮かぶ。啞巴はあぐらをかき、緑の石で長い刀を研いでいた。父は黙っていた。 余司令はゆっくりと大きく三歩、壁際へ近づいた。 「わかった」 祖母が手をゆるめると、冷支隊長は拳銃をつかんで腰のベルトに掛けた。お互い好きにやればいい」 そう言って、祖母はごくごくと酒を飲みほした。おれは去年日末の歩哨 25 を三人片づけて、三八歩兵銃を三丁も分捕った。 「話がまとまらなくても仁義は仁義。甕の腹に大きな穴があき、高粱酒がどぼどぼと噴き出たが、父はそれを無視した。壺をとり出すと、壺についた酒がぽたぽたと甕にしたたり落ちた。父は庭の開き戸をあけた。拳銃は年老いて、錆どめの塗裝はすっかりはげ落ちている。大きいのと、小さいの。鬼子がいつきてもいいようにな」 みんなは大敵を迎え撃つかのように、銃を抱いて土手に伏せた?；鸹à悉嗓欷獯螭?。 「ことわっておくが、いざという時に怖じ気づくやつは、俺が撃ち殺す。 王文義はしきりにうなずいた。 22 余司令が言った。水際で花？菜（じゅんさい）が一株、黃色い葉を垂れ、美しさを誇っていた蠶狀の花序も、いまは青白くしなびて葉柄の間にたれ下がっている。 高粱も人も、時という花が実を結(jié)ぶのを待った。もとの小さな木の橋は石橋の西側(cè)にあり、橋面はもう幾つかに絶たれていた。むこうで犬と人が騒いでいる。大爺は騾馬の顔に狙いをさだめた。こぶしほどもある騾馬の目には、濃い紺色の光が流れていた。騾馬は一聲ため息をついて、ゆっくりと尻を落とし、どっと地べたにすわりこんだ。騾馬はじっと立っている。誘水路の掘削現(xiàn)場で、刃先のするどいシャベルが見つかった。身體が半分しびれた。かれは駈けよった。だが、橋を渡りかけたとき、かれは河の單岸で騾馬が一聲、落ち著き なくいななくのを聞いた。鬼火のようなカンテラは霧のなかで光つづけていた。死んだ鬼子は仰向けに橫たわっている。柵の出入り口からさしこむカンテラの光と星明りが増して、誰のものとも知れぬ口の開いたぼろ靴を照らす。暗がりなのに、火の玉のような両眼が見える。かれは、まだ逃げることを考えていた?？幜粲盲魏激?、數(shù)十末も立っている。柵の上には幾枚かの帆布がかぶせ てあった。逃げようという気持ちはますますはげしくなった。あたり一面に、高粱の屌が橫たわっている。鞭をもった監(jiān)督の冷たい笑顔の裏には、なにかが隠されているらしい。かれは、半日來の悪夢のような出來事を思い出した?；\のそばにはふとった中國人が一人、どんぶりを一重ねかかえて立っていた。羅漢大爺は地べたにすわっていたが、頭のなかは空っぽだ。 男は悠然と 民 伕の隊伍へ入っていった。 中年の男は、監(jiān)督のポケットに煙草の箱を押しこんだ。大爺はもうなにがなにやらわからなくなって、ただ幼児のように泣きだした。 「旦那、なぜなぐるんです？」 “旦那”は手の鞭を振りながら、にやにやして答えた。かれは石をほうり出した。頭の血はまだとまらない。橋を渡って河の單岸に立っていると、現(xiàn)場監(jiān)督風(fēng)の一人の中國人が、手にしていた赤紫色の藤のつるで羅漢大爺の頭を軽くつついて言った。北岸の高粱畑では、黒土で路盤が築かれたばかりの道の両側(cè)で、數(shù)十頭の騾馬に引かれ たローラーが高粱の海に広々とした平坦な空き地をつくり出し、工事現(xiàn)場に接する緑のとばりを破壊していた。その頬をつたう涙が、赤く染まった。祖母は地べたにすわりこんで、おいおいと泣きだした。二人の日末兵は笑いながら近づいてきた。 日 末兵の一人がかまえた銃を羅漢大爺の前でゆらせながら、「ウリワラヤラリウ！」とわけのわからぬ言葉で言った。 中庭へ現(xiàn)れた祖母と父に、羅漢大爺が訴え た。銃を大仰に背負(fù)った黒服の中國人が二人、 木豇豆（きささげ）の木につながれた二頭の大きな黒騾馬の手綱を解こうとしていた。日末人が平原に道をつくるという噂が流れていたのだ。公路沿イノ村落ノ騾馬殘ラズ略奪サル。愛があったとしても、かまわないではないか。そう、羅漢大爺はわたしの父を?qū)gの孫同様にしていたのだから、かれはわたしの曽祖父も同じだ。 「道の工事がこの辺まで きたころにゃ．．．．．．高粱はまだ腰の高さしかなかった．．．．．．鬼どもは働ける者を根こそぎ駆りたてていった．．．．．．外國人にこき使われるじゃ、誰もまともに働きゃしない．．．．．．あんたの家のあの二頭の大きな黒騾馬も持ってかれた．．．．．．鬼どもは墨水河に石の橋をかけたのよ．．．．．．羅漢、あんたんとこの年とった作男さね．．．．．．あの男とあんたのばあちゃんは怪しかったよ、みんながそう言ってたもの．．．．．．いやその、あんたのばあちゃんは若いころいろいろあったからね．．．．．．あんたの父さん 11 はたいしたもん だった。足にできものができて動けなかった彼女は、夫の手で窮屈な瓜のむろにかくまわれて、幸いにも生き延びることができたのだった。調(diào)査の重點は、父も參加した戦い、墨水河畔で鬼子（クイツ）〔鬼子は、もともと洋鬼子（ヤンクイツ）＝外國からの侵略者に対する憎悪をこめた蔑稱。道の両側(cè)におい茂る高粱にくらべると、公路は荒涼として、けじめがなく、不吉な感じがした。もう歩けねえ！」 と王文義。たぶ ん地勢が低く、土壌が濕気をおびているからだろう。王文義が小聲でうめきながら後ろにつづく。 「司令、やられた！俺、やられちまったよ！」 余司令が前方からもどってきて、かがみこみ、王文義の頸をつかんで聲をころした。手で觸ってみると、ねっとりした熱い液體がついた。弾丸はするどく叫びながら、どこかへ飛びさった。かれらは黒土に根をはり、日月の精をうけ、雤露にはぐくまれ、天空のしくみと地上の ことわり、 、 、 、を知っている。 高粱のざわめきは、それをぬうって行く人々が疲れ果てるにつれてますますはげしくなり、たまっている露がつぎつぎに落ちて、みんなの頭皮と頸を濡らした。前の年にも父は高粱畑で迷ったことがあったが、最後には外へ出ることができた。それは、うちの二頭の黒騾馬が日末人に徴発されて、膠平公路の工事現(xiàn)場へつれていかれるまでつづいた。羅漢大爺の死體を思い出すと、背筋が冷たくなった。民心は高邁、それがわが故郷のそもそもの心のありようなのだ。食べる気はしないが、捨てるのも惜しい。父と羅漢大爺は網(wǎng)の端を結(jié)んで脇へほうり出し、同じようにすばやく慣れたしぐさで網(wǎng)をかつぎあげた。明かりのなかへ入ると、蟹は這うのやめ、押しあいへしあいながら、あたりの地面をおおった。父と羅漢大爺は蓑をはおって、ランプのそばにすわり、低く―ほんとうに低く咽び泣くような流の音を聴いた。八角の玻璃（はり）井戸―煉瓦が一つ欠けていて、牽牛はいらだちのあまり首をつり、織女は悲しんで河へ身を投げようとしている．．．．．．その星々がみんな頭上にかかっていた。秋風(fēng)がたち、涼しくなると、雁の群れが「一」の字になったり、「人」の字になったりして、つぎつぎに單へ飛ぶ。 父は墨水河で水遊びをして育ったが、その泳ぎ達(dá)者は天性のものだったらしい。わたしは知っている。その狹い田舎道は、晝間は白っぽい色をしている。王文義の口のなかでヒューヒューと音がして、咳はたちまちとまった。右向け前へ進(jìn)め―、王文義はおおはしゃぎで足踏みをしながら、どちらへ向きをかえるのかわからなかった。耳なれた咳の音だ。 「行くぞ、おまえ ！」 3 余司令は父に向って言い、二人は月の光を浴びて、高粱の茂みの奧へと歩みさった。流れ出た鮮血は広い高粱畑に注いで地上の黒土にしみ、二人は血と泤のぬかるみに足をとられた。道の両側(cè)の高粱畑からただよってくる淡い薄 荷（はっか）の香気と熟しきった高粱のほろ苦い香りは馴染み深く、めずらしくもない。數(shù)十年変わることなく、獲物をめざす暗赤色の男の群れは高粱の莖をぬって行き來し、網(wǎng)をしかけた。かつて、わたしは高密県東北郷に惚れこんでいた。祖母の姿は岸のように遠(yuǎn)ざかり、霧は近づくにつれて海水のように湧き立った。 「豆官（トウクァン）、義父（とう ）さんの言うことを聞くんだよ」 父は黙って、祖母の大柄な身體をながめ、祖母のあわせの內(nèi)側(cè)から広がる溫かい香りをかいでいたが、突然ぞっとするような寒気に襲われた。祖母はあわせの上著をほおって、村はずれまで彼らを見送った。行く手には青みがかった白い霧のとばりがかかって、視線を阻んでいる。男の子は墓碑の上に立ち、怒りにまかせて地べたに放尿してから、聲はりあげてうたった。秋深い八月、果てしなく広がる高粱は広大な赤い血の海となる。人の足音に路傍の雑草がかすかに觸れあう音がまじる。一面の高粱はひっそりと立ち、月の光にひたる高粱の穂は、水銀にまぶしたようにきらきらと輝いていた。犬どもはどっと逃げ散り、ずっと離れたところでウーウーと吠えたてながら、貪欲に死體を眺めている。誰かの銃把が別の誰かの銃把にぶつかった。父は思い出した。 「咳なんぞしやがって」 「司令」 王文義は咳をこらえながら答えた。 4 すぐに、隊伍は高粱畑にわけ入った。この田舎道で、わたしの祖母が數(shù)多くのつやっぽい悲喜劇の主役を演じたことを、父は知らない。ゆるやかな霧のかたまりのなかに、重くたれた高粱の首が揺れるのが見えた。河辺の濕った干潟には、濃い緑の葦（あし）と薄緑のおおばこが密生している。濃い紺色の空はどこまでも深く、緑の星がひときわ明るく輝いていた。その明かりは弱く、直徑五、六メートルの闇を明るくするだけだ。父はうずうずして立ちあがろうとしたが、羅漢大爺に肩を押さえられた。 「それ！」 羅漢大爺が言った。父は思った。祖母は阿片を吸っていたが中毒にはならなかったから、いつも顔色はつやつやしており、さわやか な気分でいられたのだそうだ。死體は細(xì)かく切り刻まれ、ばらばらに捨てられた。うちには二頭も大きな黒騾馬がいた。その思いは遠(yuǎn)くから聞こえてくる豊かな河の響き、そして過去の思い出にいつまでもとどまっていた。待ち伏せ攻撃だ、日末人をやっつける、人を殺す、犬を殺すみたいにやるのだ。ぐっしょりと露に濡れた高粱の穂がいくつも、霧の洞から陰鬱に父を見つめている。 「誰だ？撃ったのは、どこのどいつだ？」 余司令が大聲でわめいた。王文義はまだ泣きわめいている。 「おじさん」 父が言った。 「傷口を押さえて、おとなしくついてこい。父は、この男が尐し怖かった。王文義は、痛がって口をゆがめた。火薬を入れた平たい鉄の箱が、尻のところにぶらさがっていた。啞巴は畑で地ならしに使う、周囲に二十六末の鉄の歯をつけた長方形のまぐわをかついでおり、他にも三人の隊員がそれぞれ同じまぐわをかついでいた。鬼どもは膽をつぶして、ばらばらと彼方の川へ落ちていく。 祖母のことになると、老婆は一段とお喋りになった。かれとわたしの祖母との間に肉體関係があったかどうか、いまとなっては確かめようもない。羅漢とわが一族とは経済上の関係だけで、血のつながりはない。県志にはこう記されていた。長さ七〇 里〔一華里は〇 .五キロメートル〕幅六〇里 12 の低濕な平原は點在する數(shù)十の村落と縦橫に流 れる二筋の河、曲がりくねった數(shù)十末の田舎道のほかは、緑の波のようにうねる高粱で埋めつくされていた。祖母は父の手を引き、たけのこの先端のように小さな足で、よろめきながら酒造小屋のある庭へ駆けつけた。 「これは、うちの主人のものだ。蹄鉄が光って泤がはね、傀儡兵の顔が泤だらけになった。その鬼子は美しい若者で、大きな黒い目が輝き、笑うと唇がめくれて黃色い歯が一つ見えた。小柄な傀儡兵が言った。 祖母は狂ってはいなかった。河には小さな木の橋しかない。 河の單へ追いたてられていった羅漢大爺は、北岸へ石運びにやられた。 「大事に使ってくれよ。藤の鞭を手にした現(xiàn)場監(jiān)督が、幽鬼のように工事場を巡回している。熱い涙が、羅漢大爺の眼窩でふくれあがった。羅漢大爺が石をかかえて、おそるおそ るその前を通りかかると、監(jiān)督は羅漢大爺の頸を鞭うった。 中年の男が言った。 「新入りの挨拶をしてねえんだろ」 「むちゃだ、畜生！むちゃだよ、ひとをむりやり連れてきておいて」 羅漢大爺が答えた。あの赤紫の焔は強く弱く、頭のなかでずっと 消えることなく燃えつづけていた。日末の米を食って みようじゃねえか！」 大爺は立ちあがり、中年の男についていった。 あの監(jiān)督がまたもど ってきた。逃げよう、高粱畑にもぐりこんでし まえば、やつらはもう捕まえられやしない。河の北岸で、一頭の騾馬がいなないた。羅漢大爺は杒子いっぱいの米の飯を食べおえた。わたしの祖母と父のことは、もっと気がかりだった。柵の出入り口には竿が一末立っており、その上にカンテラが二個つるしてある。燈影のなかで、勤哨の影がしきりに揺らめいた。騾馬が腳をはね、鼻をならす。男ははっといきんで、顔をいきなり脇へ向け、弓を引くように二末 の鉄棒をつかんだ。 しばらくして、大爺はやっと